眠らない島

短歌とあそぶ

松村正直 第4歌集 『風のおとうと』


 パンを焼くひとが奥よりあらわれてパン売るひとと言葉を交わす  
 
松村正直の歌を読んでいると身体の力がほぐれてゆくようで、なんとも心地良い。第四歌集『風のおとうと』を何度か読んでみたが、それは読みたくさせる適度な軽さに魅了されるからだろう。こう読んでほしいという押しつけがましさがなく、作者とのあいだにふわっとした距離が保たれているように感じる。フラットな詠いぶりだが、脱力というほど作為的ではない。

場面をとてもクリアに立ち上げながら、すっと視点を変えることで不思議な浮遊感と新鮮な驚きが歌にもたらされる。上手いなあと羨望を感じてしまう。冒頭に挙げたパン屋の歌も、上句の「ひと」と下句の「ひと」が入れ替わることで、歌にねじれが生じる。そのねじれのなかに無定形な現実の場面をありありと再現してみせることで、読む方にその瞬間を同じように生きているという共感をもたらす。これはおそらく、読むことの喜びではないのか。
 
 
 乗り換えの駅までを歩く読みさしのページにひとさし指を挟んで  
 この先は小さな舟に乗りかえてわたしひとりでゆく秋の川   
 小雨ふる路地を歩めば玄関にたてかけられて回覧板ひとつ    
 人形をあきなう店が地下にあると知りてよりここに階段がある  
 
歌集のなかほどから、ランダムに引いてみた。1首目、電車の中で読んでいた本に指をはさんだまま、電車を乗りかえる。駅と駅との距離はそう遠くないのだろう。一日のなかのなんでもない短い時間のスケッチ。
2首目、こんな歌がさりげなく差しこまれているから嬉しくなる。現実からすっと離れて、ひとりの思いのなかにいる。秋という季節のあてどなさを澄んだ言葉に託しており、いつまでも漂泊の思いから抜けきらない永遠の青春性を感じる。
3首目、散歩の途中に目にとまった光景。作者の視線が向けられることで、ひとつの回覧板は世界に立ち現れてくる。 
4首目もおなじく認識の歌。階段は気づく前からあるのに、「人形をあきなう店」へ通じる階段という意味が与えられてはじめて作者の意識に階段は現れる。現実世界は、連続的であり混沌としている。しかし、ある瞬間に形をもってあらわれる。それが偶然ということだろう。
 
 鉄橋を渡れば見えてくる町の偶然だけがいつも正しい     
 
 この歌集を読みながら「偶然性」ということをぼんやりと考えた。偶然が成立するのは、現在という非在の瞬間である。過去になれば、時間は再構築されさまざまな意味づけが可能だ。そこにはものごとの「必然性」がみえてくる。この作者はおそらく、この「必然性」の縛りから解かれたいのだろう。いつでも、自在に時間のなかを歩行してゆく。それは、先入観なく柔軟に物事や、他者、また自分自身とも向き合う姿勢であり、そのような出会いの場所にこそ、みずみずしい世界がたち現れる。この歌集の詩性は、そういう瞬間にあたえられた翼のような言葉によって支えられている。それは、果たされないあこがれのようにも思う。
 
好きな歌は、きりがないほど溢れてくるが、いくつか挙げてこの文を終わろう。
 
 つながれて自転車は樹の下にあり辺りの草を食むこともなく  
 外は雨であるかもしれず何事もなければ海であるかもしれず  
 ああすでに五月の空はなにごともなくあらわれている飛行船  
 堰堤を越えてあふれておちてゆくしばらくは水のたのしき時間   
 ねえ阿修羅まだ見ぬひとに伝えてよ今日ここにいた私のことを   
 ふたたびを戻ることなき午後三時 抱かれて遠くみどりごが来る