眠らない島

短歌とあそぶ

守中章子  第一歌集 『一花衣』

 
守中章子さんは2013年度未來年間賞を受賞された実力派の歌人である。巻末には手厚い岡井隆先生の批評文が収録されており、この歌集の完成度の高さを知ることができる。内容については岡井先生の精緻な文章に言い尽くされているので、これから書くことは全て蛇足になってしまうのであろうが、自分なりに感想をまとめてみたいという衝動は抑えがたい。そこで稚拙ながら文章を綴ってみることにした。
第一歌集『一花衣』は大きく三部から構成されており、それぞれが共鳴しながら全体性を保っているものの、細部を詠み込んでいくと歌の作り方が大きく変容してゆくダイナミズムを実感することができる。第一部、歌集冒頭の作品を紹介する。
 
  この朝は一花衣うつすらと大気色づきかをる紅梅    
 
 歌集のタイトルにもなっている「一花衣」。この言葉から喚起される美意識が一首を貫いている。一筆書きで、早春の朝の生気と紅梅のほのかな明るさをさっと掬い取っている。このように見巡りのつつましい自然や人事のたたずまいをスケッチする作法から歌集の世界は展開する。素朴で気取らない文体で詠まれた歌の数々が、読者をやわらかな歌集の世界に誘い込む。
 
   漱石のうまれたる地に嫁ぎきて「だいこくさん」と呼ばるる日日の  
 
   配達にととせはたとせ昇り降る金井米店の黒き自転車    
 
 一首目、「だいこくさん」とはお寺の奥様を呼ぶ呼称である。自分自身が「だいこくさん」と呼ばれることを肯定的に受け止めており、作者自身の描く自画像がくっきりと立ち上がる。名前を与えるとは対象を定義することでもある。ここでは自分自身を「だいこくさん」と意味づけることで、安定した自我意識を獲得している。その揺るぎない視点から寺にまつわる独自な生活時間や人との交流が丁寧に描かれる。二首目の歌なども、都会のなかに長く住む人々の生活が素直にスケッチされていて心持ちがよい。こういう明晰な歌は自我の自明性に支えられているように思う。その自我意識が歌集の中盤から大きく揺らいでゆく。その徴候は次のような歌からはじまる。
 
  吾子還らば雪水与へむ賢治のごといやむしろこの生命与へむ      
 
  待ちやがれかげろふゆらぐ炎天に亡夫立ちをりえい待ちやがれ 
  
  
  子を産みて育てその子を喪ひぬふあり出でませ父と娘で      
 
一首目は、「吾子」を亡くした母の悲しみを宮沢賢治の「永訣の朝」のフレーズに託して詠われている。二首目は「亡夫」を呼びかえそうとする切なる思いが「待ちやがれ」といった暴力的な言葉で直截に書き付けられる。そして、三首目、子とその父を失った喪失感がありのままに詠われていて胸を衝かれる。このような凄絶な喪失体験、そしてその後に続く時間をくぐり抜けることで作者の既存の自我意識は次第に解体されてゆくように見える。
 
 
  さかしまに墜ちくるものをひとまずは時と名づけて飼ひ馴らしゆく
 
    
 日常の時間意識においては自明のこととして現在の先には、未来が続いている。ところが、ここでは、未来の時間が「さかしまに墜ちくるもの」として作者に捉えられている。そうであっても生きている限り、否応なくやってくる時間と付き合わざるを得ない。ここに作者の意識は世界と大きく齟齬をきたしている。この歌からは、すでに時間を連続的に捉えることが不可能なった自我意識の危機が垣間見られる。
 
しかし、守中さんが卓越しているのは、こうした契機から傷ついた自意識に内向してしまうのではなく、束縛としてあった自己同一性の枠を越えて、自我を新たな地平に解放させたことだ。そのことは守中さんの歌の言葉を、詩語として更新してしまった。
 
  珈琲の苦きをふふみシャツを替へ言葉(パロル)の裾へ触れにゆくらし    
  きれぎれにきこゆる声よ脱臼する母語よ夜明けの白きiPhone     
 
一首目、この作品は、作者の歌言葉から詩語への変革宣言のようにも思う。「パロル」はラングに対してより個別的な言葉とされる。体系的な語法から自由になることで、言葉を解放する。それは未知なる意識の発見へと飛躍する方法であろうか。また、二首目、「脱臼する母語よ」とは、語格をあえて脱臼させる、つまり、文脈を破壊することでそれまでの既存の文体では拾うことのできなかった言葉になる前の「きれぎれの声」を掬い取り、詩の言葉として表現しようとすることへの熱い意欲を伝えている。
 
  蝶あまたあかときの寝に飛びかひぬ襟ぐり深きブラウスを着よ    
 
 わが胸にふかくしづめる鳥のありはたりはたりと翼をかへす   
 
一首目、蝶が飛び交う映像が何を意味しているかは定かではない、しかし歌にはどこか至福感が漂っている。そこに身をあづけて解けてゆくような緩い意識が広がっている。二首目も、現実に存在するものを詠むのではなく、非在の鳥を実感的に表現している。この鳥こそ沈黙している魂そのものではないだろうか。ここでは「蝶」や「鳥」は具体的な対象に向かっていない。言葉は、現実の意味をはなれて詩的に昇華している。
 
このような言語意識の変革は当然、自意識の刷新を同時に起こすのであろう。ランボーの言葉を借りれば「私は一人の他者である」という態度である。こうした自己へのくっきりとした距離感は次のような歌に如実に現れている。
 
 「吐きますかまだ吐きますか」と問ひかける若きナースにこたへがたきも    
  まなかひにひろがるものをうす霧と呼べり不安と未だ呼ばずして  
 
 一首目、病名は不明であるが、何か重篤な病気であることが前後の歌から読み取れる。病気であるのは作者の肉体であるのに、意識はどこかその肉体から離れてあるように詠われている。ナースの言葉を差し挟むことで、「病」が客観的なモノとして浮かび上がる。これが自我を「脱臼」させるということだろうか。不思議な詠法である。それは、二首目にも通じる。意識とは常にプロセスであり、名付けた瞬間に言葉からすり抜けて行く。そういう意識のありかたを慎重にかつ正確に詠っている。この歌なども、歌集の前半ではみられなかった世界を立ち上げている。
 
こはしたりこはされたりする朝あけに喩は生まれきぬ魚(うを)のかたちで   
石たちは眠つてゐますDETRUIRE(破壊せよ)はがされながらかがやく言葉   
 
 歌集の掉尾には創作そのものの現場に踏み込むような歌が散見する。こうした刷新された言葉や意識が、存在するモノを再現することから解き放たれて、よりゆたかなイメージを紡ぎ出してゆくことであろう。今後が目の離せない作者である。
 
  
   底なしの悦びですね階段に座りて桃をこのやうに剝く