眠らない島

短歌とあそぶ

河野美砂子  第二歌集 『ゼクエンツ』


雨雲をはぐくんでゐる森としてゆれやまずあり青葉の御所は 
 
 
河野美砂子の第二歌集が出版された。待ちにまった歌集である。第一歌集から十年あまり。十年はやはり長い。この作者にして、第二歌集まで十年を要することに驚きを感じる。自身の歌への妥協を許さない厳しさがその時間を必要としたのだろう。
巻頭に挙げた歌には、京都の本質をなす御所にまとわる闇の深さをみごとに言葉に形象化されている。これは京都に住んでいる人しか詠めないなと嘆息した。上句の「雨雲をはぐくんでいる森」という陰翳をはらんだ景の把握がそのままリアルな比喩として下句に流れ込んでいる。「青葉の御所」とあるから、この季節は初夏であろうが、あえて陽光をさけて、雨雲と揺れる青葉を取り合わせている。景を翳らせることで京都が「はぐくんで」きた長い歴史的時間が内包される。政治と文化そして人の暮らしの興亡をすべて飲み込んで今も御所はざわざわと青葉を戦がせている。その闇は、おそらくこの作者自身のものでもあるのだろう。
また、この歌の印象としては事象を遠近法的に見つめる姿勢が際だっており、歌に深い彫りを与えているように思う。
 
桂川大きく曲がりまがるたび水際(みぎは)あやふく春の草抱く 
 
歌集の巻頭歌である。桂川の大きく蛇行する姿がまず眺望される。上句の「曲がりまがるたび」というリフレインがゆったりと心地良い。そうして大きく景をつかみながら視線は絞られて近景を「水際」「春の草」を捉えてゆく。そこにわたされた「あやふく」という言葉の選択が絶妙である。この一語で豊かな川の姿と、ささやかな草とのバランスが保たれている。慎重に吟味された言葉の配置がここにある。
 
挙げた二首は、景を詠んではいるがその深さはどうだろう。やはり、景を発見する主体の精神世界の陰翳があきらかに投影されている。存在することの闇の部分へと吸い寄せられてゆく主体の意識が質感のある言葉を選りだしている。
 
水雪にすこしよごれてわたくしが降りたあと神戸までゆく電車
 
 「水雪」は冬の季語。「水分をたくさん含んだ積雪」ということらしいが、響きがなんとも美しい。その水雪に汚れていることをいうことで、電車の存在感が顕在化する。「わたしが降りたあと」ということで、「電車」と「わたし」との、はかない出逢いが親密感をはらんで再現されている。自分が降りたあとも電車は走り続ける。「神戸」という地名がどこか美しく響くのは何故だろう。雪によごれながら走る電車をまるで朋友のようになまなまと感受する作者の共感がこの地名にかがやきを持たせているように思う。
 
階段が段々であることなどもかなしければまた掃除機かける  
窓閉めに立つこの家に食べ物を腐らせてしまふ生活をして
 
歌集後半では、母への挽歌が散見する。ここに引いた二首がそのことに関連するのかどうかはわからない。しかし、この二首に共通するのは圧倒的な喪失感だ。一首目の歌、階段は段々であることは当然なのに、そのことが悲しいという。ここで、瞠目するのは、生活のなかの自明性がここでは崩壊してしまっているということだ。「段々」というこどもっぽい言葉の使い方もここではかえって痛ましい響きをまとってくる。二首目も、生活のなかに包含されている暗部を「物を腐らせてしまふ」とこれ以上無い適確な表現でえぐり出している。それはいつかは死ぬ肉体を持ちながら生きるしかない主体の悲しみでもある。
 
この歌集を読み進めるほど、言葉が心の奥までとどいてくる。言葉を生活の深部をとおしてから紡いでいる手作り感のようなものかもしれない。安易に使いがちな「ひかり」や「かぜ」といったきれいごとの言葉を忍耐強く徹底的に排除しようとするストイックな精神と向き合っているような迫力が伝わってくる。その磨き込まれた言葉の隙間に、底光りするような美しい歌が差し込まれていて思わず立ち止まらされる。
 
ゆびさきが灯台のやうに見ゆる日よ 西からくづれてゆく雲の峰