眠らない島

短歌とあそぶ

谷とも子 第一歌集 『やはらかい水』


やはらかい水を降ろしてまづ春は山毛欅の林のわたしを濡らす   
 
このたび、「未来短歌会」の歌友である谷とも子の待望の第一歌集が出版された。
 
谷とも子の歌は、今まで折に触れ読んできた。読むたびに様々な表情を見せてくれるその歌風や題材の多彩さは大きな魅力である。このたび一冊の歌集にまとめられて、今まであまり意識していなかった谷とも子と出逢ったようで新鮮だった。今回強く感じたのは、歌の骨太さであろう。一見、やわらかな文語と歴史的仮名遣いを駆使し、しなやかな韻律をまとっているが、その内実の太さは、とりもなおさず、この歌人の精神性の強さであり、それが歌の輪郭をくっきりしたものに仕上げている。

歌集のなかにはおおくの自然詠が収められている。ひとつひとつの歌に沿って鑑賞しないといけないが、どうやらこの作者は、自然と同化したり、自然のなかに自意識を解放する方向にはいかないようだ。どちらかというと、ゆたかな自然の生命、あるいはその裏返しである「死」でさえも、この世に存在することの力として感受し、自身の内面に引き込んでいる。自然の普遍性を通過することで、自らのアイデンティティの足場とするような強力な磁場がこの作者の精神の芯にあるように思う。
冒頭に引いた歌は、歌集の巻頭歌。「やはらかい水」とは春山に降る雨であろうか。春という季節の生命力を山毛欅の林に降る雨を通して全身で受けとめている。そこには、まぎれもなく生きている「わたし」が存在している。
 
  山ふかくちよつと怖いなあと思ふとき新緑もつとも輝きを吸ふ   
  ふくらはぎ揉みつつ思ふ立ち枯れてゆく間のながい痛みのことを  
  沢の面のひかりをうすく削ぐやうにカワトンボゆく前へ前へと    
  こんなにも生きたかつたのか直瀑の水の重さに逆らひながら   
 
歌集の大半を占める自然詠であるが、それも様々な表情を見せている。
一首目、山深く入ってゆくときの怯えのような感覚をいいながら、その場所に立つことで見えてくる新緑の輝き。ここには、作者の意識と自然とが拮抗し、意識そのものが新緑に輝く瞬間が捉えられている。
二首目、疲労したふくらはぎは自身の身体でありながら、立ち枯れてゆく木の痛みとも通じている。普遍的な生と死、そして時間への接近がある。
三首目、ひかりを削ぎとりながら前へ前へ進んでゆくこのカワトンボこそ作者自身の生きるありかたではないのか。四首目、滝の流れ落ちる水に打たれながら力強く立っている。水を全身にうけることで、本能的で原初的な生命への希求を呼び込んでいて、この作者の本領といえよう。
 
自然の中に身を投じるとき、この作者はほとんど幸福なほどの全能感にちかいところにあるように思う。そのときのアイデンティティには揺るぎがない。ところが、現実の場面になるとどうだろう。
 
  錆つきしシャッターにかかる大き手が夜をひきづりおろす音たつ  
  夏枯れの一年草を引き抜けばわたしの力のやうな根が出る     
  陽のあたるほうもやつぱり冷たくて電柱はずつとそこに立つ影   
 
一首目、シャッター音の不穏さを「大き手」に焦点を絞ってクリアに形象化している。二首目、「一年草」という区分がいかにも人工的な場所を指示している。夏枯れした植物の根を「わたしの力のやうな」と比喩する。自分の中の何かを押し殺す悲しみがこの表現にしずかに載せられて印象的だ。三首目は、冬の電柱。「陽のあたるほうもやつぱり冷たくて」と把握する感性が光っている。そして、電柱はそこに立つしかない。
これら三首は、見事な都市詠かと思う。そしてここには、現実の世界で生きるしかないことへの齟齬感や不全感を具体的なモノを通して描写している。鋭い認識と卓抜な技巧はいうまでもない。
 
こうして、読んでくると作者のなかに押さえても押さえきれない深い飢餓感のようなものが形をもって立ち現れてくる。その情感こそがこの作者を山に追い立て、また、現実の中で格闘しつつ鋭敏にものや人を見る眼力を育んでいるのだろう。これから、どう変わっていくのか、谷とも子を追い続けたい。
 
   雪になりさうな雨なら待ちませう手のうへにもつとかたちが欲しい