眠らない島

短歌とあそぶ

白井健康歌集  『オワーズから始まった。』


 天竜川を越えてひかりを払いのけ橋からぼくを覗き込んでる   
 
 
 巻頭に挙げた歌に立ち止まった。一人称で歌い出されていると思い込んで読み下すと、下句で、いきなり「ぼくを覗き込んでる」となり、ぐらりと感覚が揺さぶられる。では天竜川を越えてきたのは何だったのか、ぼくを覗き込むのは誰なのか、いったい、ぼくとは何なのか、次々と疑問が噴きだしてくる。まずは「ひとつの主体」の枠組みを外さないと、言葉にはじき飛ばされてしまう。これは心地良い眩惑だ。この歌には、主体がいくつかある。ぼくと、ぼくを覗き込むもの。そして、その世界を外から見ているもの。
 「ぼく」は何かに覗き込まれている。それは天竜川を越えてやってくる不可思議な存在。しかもひかりを払いのけることで、ぼくを翳そのものに変えている。そんな不気味な存在は、巨大かと思うとそうでもない。なぜなら、橋の上に立つほどの大きさ、つまり人間に近いことが返って不穏な雰囲気を誘う。ここで、ふたたび思考が反転する。実は「ぼく」自身が「ぼく」を覗き込んでいるのではないか。いや、ぼくとは「天竜川」そのものではないのか。
 ここには複数の偏在する「目」があり、それが世界そのもののとして「ぼく」を脅かしている。こうして、言葉は統一した意識から発せられずに、増殖してゆく意識から、みだらに発語される。そうすることで、重層的な世界のイメージを立ち上げてしまうのだ。
 
歌集「オワーズから始まった。」の帯文には「派遣獣医師としての口蹄疫作業のドキュメント」とある。その一連である巻頭の「たましいひとつ」には、まぎれもなく特定の現場に臨んでいる確固とした主体が存在しており、揺るぎない視点から見尽くした場面の力が歌一首、一首をするどく立ち上げている。しかし、この連作の描写も単純では無い。多様な現実と葛藤にみちた内面との軋轢を構成できたのは、この複眼的な世界観であることはまちがいないだろう。
 
   死はいつもどこかに漂う気のようなたとえば今朝のコーヒーの湯気  
   あかさたな雨はみどりを濡らしつつはまやらわれは空へ俯く    
   世界の片隅で誰も拾いあげようとしないものを見ていたい。   
 
一首目、口蹄疫防疫作業の過酷な現実は、穏やかであるはずの日常の時間にまで食い込んでくる。「死」はなまなましく作者の意識から離れることはない。
二首目も同じ連作、結句の「空へ俯く」というフレーズに命への敬虔な思いが伝わってくる。三首目、この作者の「見る」ということへの誠実な姿勢がシンプルに語られている気持ちがしんとする。この「目」をして、口蹄疫防疫作業の内実が可視化されたのだろう。「見る」ことの意味を教えられる。
 
  臨床は海の揺らぎと思うとき離島の数だけ問診をする   
  しなかったこと、が一瞬ねむりからみぞおちあたり抉り取られる  
 
 
 一首目は、獣医師としての職を抒情的に詠んでいる。臨床にきまった形はなく、「揺らぎ」のなかでかろうじて成立するものであるなら、問診はさらに繊細な仕事であろう。それを「離島の数だけ」と卓抜な喩で掬いあげている。
 二首目は、作為、よりも無作為であることへの怯えが描かれている。無作為であることの、取り返しのつかなさのようなものがあって、それが存在を脅かしている。ここにも重層的な意識の構造が捩られた文体に垣間見られて印象深い。
 
  歌集中には、一首のなかで鮮やかにイメージが転換し、現実世界を揺さぶられるような歌が多くある。それは、歌というよりも詩に近い。この作者の言葉への深い思いをそこから推測できるのも楽しいことだった。最後に好きな歌をひとつ。
 
やさしいと思える音に出逢うため草原のなかめぐる音便