眠らない島

短歌とあそぶ

遠藤由希 第2歌集 『鳥語の文法』


入り組んで降る雨のなかひとすじのさみしさは貫けり怒りを  
葉にならず星にもならずムクドリは集いて夜ごと糞を残せり    
 
 読み始めて、身動きのとれない圧力を感じた。作者と、作中の主体と、読者である私がストレートにパイプで連結されて、強い勢いで顔に水が噴き出したとでもいえばいいのか。現実の表面のざらつきと、そこに生きる主体の内面の熱量がぎしぎしと押し寄せてくる。巻頭にあげた歌のとおり、「さみしさ」が「怒り」を貫いている。
二首目には、誰でも目にはしているが歌にはしない「糞」という事実が叩き付けられている。このような露悪的な表現をあえてとることが、作者にとってどんな意味があるのか。それを繰り返し考えさせられてしまう。自己にあくまでも執しつつ、苦しい自己をあくまでも歌で救おうとはしない。どこまでも、執拗に追い詰めてゆく。その業は、表現の荒々しさとあいまって荘厳な感じさえ与える。
 
剥き出しに財布を携えたる人らランチタイムの通りに溢る   
風に想いを乗せる時代はとうに去りスマートフォン( はじ)く指先
三億円当てたら何が楽になる黄のパプリカを半分に切る  
整然と家具並びる家具屋には墓場のような静けさのあり   
 
 一首目、上句の描写がまず印象的だ。ここで主体の目に捉えられているのは「剥き出しの財布」。そこには単に無防備であるものとして無機質に存在を見るのでは無く、剥き出しであることにどこかグロテスクな感じを受けている主体があるように思う。なにがグロテスクなのか。それは「生存」そのもののような気もする。
二首目は、一読してよく分かる。作者のものの見方をストレートに言挙げしている。三首目の、シャープさ。そして四首目の、比喩を効果的に使ったシニカルな視点。四首をとおして言えるのは、感じ方のなかに得たいのしれない空虚感があることか。それは、時代のもたらしたものとも言えるし、この作者固有の生活史から生じた穴かもしれない。どちらにしても、その虚ろさが、抜き差しならぬ言葉の暴力性を孕むことにもなっている気がする。
 
わけのわからぬものが心に。まくわうりぺちりと叩けば水ゆがむ音 
残業をする静けさに垂れてくる人恋しさはもずくのようだ  
バーゲンが終わっても春まだ遠く胸の木立にマフラーを巻く  
まだ硬きバターを塗りて窪みたるトーストを食む冷えた素足で  
 
 一首目のように「わけのわからぬものが心に」ありながら、それをコントロールする力は強靱なものがある。そういう意味ではとても理性のまさった歌集ともいえる。二首目は、嵐のなかの一瞬の凪のような歌。結句の比喩は卓抜だ。三首目は、佐藤佐太郎の冬木の歌を思わせて、しんとする。現代では、「梅」が「バーゲン」という消費のシンボルなのかもしれない。四首目、生きていることの切なさを、具体的なショットでシンプルに描き出していて美しい。歌集のなかでも好きな歌の一つだ。
 
歌集のなかには現実ときびしく対峙する歌が多いが、すっと現実から離れてゆく視線で描かれた歌も目にとまる。ほっとするひとときだった。
 
 
今日の陽は伸びしたくなるおおらかさめじろも枝を出入りしている