眠らない島

短歌とあそぶ

大森静佳 『河野裕子の歌鏡』(二)

 
「梁」87号に掲載されている大森静佳の河野裕子論が注目されている。とくに今回は『ひるがお』『桜森』という河野裕子の骨格が形成された歌集への論考であり、貴重な資料になっている。大森は、この二歌集を支える河野裕子の主題形成の過程を、時代背景を詳細に参照しながら丹念にたどっている。
 
 河野裕子という歌人の基底をなすのはその独特の身体感覚である。それが、この女歌の代表格である歌人の作風を形成してきた。大森は河野の身体感覚が妊娠・出産体験から繋がるものであることをまず指摘している。河野裕子といえば「母性」の人のようにイメージされるが、大森はこの見方について非常に慎重に検討を重ねている。「母性」という言葉の発生からその意味の変遷、そして河野裕子が切り開いた「母性観」へと肉薄してゆく。
 
大森の分析のなかで、次の箇所が特に印象的だった。
   
  河野の「母性」は、女性であれば誰もが生まれつき持っているなど という種類のものではないし、個人の産む、育てるという体験に執着するものではない。自分の裡の身体感覚にもとづいて生命の混沌へと錘をおろす壮大な思想であった。これは、歌と散文を書き進めるなかで、河野が全力でつかみとってきた主題であったのだ。
 
 確かにそうなのだろう。女性であることと、「母性」とはそうやすやすとは結びつかないし、妊娠・出産体験がそのまま河野の母性観を形成したとも思えない。自身の身体体験を深く思索し、個別性を越えて思想へと展開してゆく河野裕子の力技こそが、重要なのかもしれない。
 ところで、大森が資料を詳細に渉猟しているように、一九七〇年代から八〇年代にかけては、土俗への関心が高まっていた。私は1975年に大学に入学したが、「中心」から「辺縁」ということがいわれ、「土俗」「民俗」論が学生生協の書棚に並んだ。中上健次の「枯木灘」がどこの本屋でも平積みされていた。女性論も盛んだった。森崎和恵、石牟礼道子などの言説の影響が大きかった。私自身もその二人に大きく影響された。そのころ出口の見えない疎外感や孤立感のなかであがいていた私はいわゆる「生の根源性」を求めて、「生命」や「自然」と繋がる「母性論」に吸い寄せられたものだった。未來へ展望もなく、浮遊する日常に不安だけが広がっていたのだろう。この大森の論考を読みながら、あのころの苦しさがありありと蘇ってきて、言葉を失ってしまった。まるで探偵のような鋭い追跡の仕方である。
 
さて、話をもどすと大森の論考は、「母性論」を掘り返すことではなくて、河野裕子歌人としての軌跡をたどり、その立脚点を明らかにすることであった。多くの作品を引用し、また与謝野晶子岡本かの子といった先人たちの歌とも比較し、十分な鑑賞を展開している。
 
大森の洞察は鋭い。
 
河野裕子は汎母性を自ら実践し、さらに身体感覚へと繋げ、深めていくことによって、それ以上の高みに到達しようとした、その表現上の苦闘こそが初期の河野裕子の本当の財産ではないかということである
 
と意味づけている。また論の最後では、この二歌集についてこう記している。
 
汎母性によって生命や自然界につながろうとした。その一方で、自意識の不安という沼からなかなか足を抜けずにいる
 
おそらくそうなのだろう。私自身は、「母性論」に惹かれながらも、結局それを思想化することも、表現に結びつけることもできなかった。その背景には、「自意識の不安」が「母性」を求めただけではなかったかという思いが苦くやってきたからである。河野も様々な批判に晒されてきたことが大森の論考から教えられた。そんななかで、河野の思想が成熟してゆく道のりをこれから大森は明らかにしてゆくことだろう。
 
大森の論を読みながら、自分自身のたどってきた挫折の時代を振り返り、あらためて問い返すことができた。今後も大森の論考からは目が離せない。