眠らない島

短歌とあそぶ

渡辺良 第四歌集 『日のかなた』

 
 
『日のかなた』は渡辺良の四番目の歌集である。後書をみると「未来」入会が昭和五二年とあるから、歌歴は既に三十年以上になる。
 
  おおいなる欅のもとに佇ちおれば思惟の青葉が戦ぎはじめる    
 
 二〇〇六年に『未来』に入会し、未来誌を購読するようになった頃から渡辺良の歌には注目してきた。一読して磨かれ削ぎ落とされた言葉のなかに深い内面の思索が広がっており、強く引きつけられた。短歌的な情緒や現実寄りの平板な感情にはいかない、また観念だけでもない。言葉のうしろに確かな経験の積み上げた時間の嵩を感じさせる力がある。この度、歌集『日のかなた』を読み、その全容を見ることで渡辺良という人が築き挙げてきた世界の厚さに圧倒的な質量を感じ、深く感銘を受けた。渡辺良は後書きから知るところによると、開業医として診療所を持ってから十年ほど経過しているということらしい。歌集のサブタイトルも「臨床と詩学」。患者の側に立ち会う場面から、その思索は深く沈潜してゆく。歌風は思索的だが、その意識は常に現実に向きあっている。言葉は作者の現場である「臨床」の場面に立ち戻ってゆく。その往還の中で、病むこと、老いること、そしてその先にある死が鍛え上げた言葉で語られる。どの作品からも、具体的な場に立ち会うことで得られた密度の高い時間の意味が粘り強く問い返される。
 
 白桃が鉄をささえる病室にわたしはしたたる絶望であった  
 言ってほしい風の死にたる樹の下でどんなに僕が非力であるか    
 
 人は病み、だれしも死にゆく。いつかは平等に全ての命を飲み込んでゆく死の前に医者という存在はどうしようもなく非力である。一首目は渡辺の医者としての深い絶望を読んでいる。「白桃が鉄をささえる」とは奇妙な喩であるがここに医療あるいは医師という職業の無力感が漂っている。高度に発達したかに見える医療現場であっても、それを支えるのは震える白桃のような人の精神でしかないのだ。二首目も、ほぼ同じ意味合いで読むことができる。渡辺の内面には深い絶望感があり、徹底的に「死」の前で敗北している。そういう深い自己への洞察が常に渡辺を昏迷する現実に立ち返らせ、その場に踏みと止まらせる。
 
  治療的撤退という声のする其処にはじまる遠き歩みは  
 
 「治療的撤退」とは、治療のために患者が社会的な場面から辞退することを意味するそうだが、こうした提案はたいてい患者には受け入れがたいものであるようだ。臨床の現場とはつねにこうした患者との、また自身のなかでの葛藤の連続なのであろう。
 
  他人には知られていない自分から自分にしられていない自分へ  
 
「臨床」という現実の場面にいることで生まれる様々な齟齬、そして疑念をたゆまなく自分の内面に問いかけ、深く沈潜してゆく。そこに見ようとするのは「自分に知られていない自分」。この繊細な感覚や意識、そして低い姿勢での思考がこの作者の〈経験〉を豊かな時間として耕しているように思える。
 
  分かり合えない谷間に見えている山しずかに我らを近づけていた   
  患者でもなく医者でもなくて人間をそのまんなかにすわらせてみて   
 
病むものとしての患者がいて、その前に治癒する技術を有する医者がいる。治癒するものと病むものとの関係とはいかなるものなのか。患者と医者が別個の主観を立て閉ざされている限り、それは絶たれた関係にすぎない。この二首が目指している方向は患者の気持ちに寄り添うというような単純なヒューマニズム的な立場ではないと思う。臨床の現場では「主観」がそれぞれ個別のものでは展望が生まれない。手探りで言葉やコンテキストを通して、二者の間にようやく成立し、了解される「主観」のかたち。そこから、やっと治療行為は始まるのであろう。歌集のなかでは繰り返しそういう困難な現場が詠まれている。渡辺の歌は、臨床の場では言葉が大きな意味を持つことを教えてくれる。それだけに言葉ということの不可能性にも敏感にならざるをえないのかもしれない。
 
  ささやかな仕事をしようやわらかく樹幹にふれる言葉をみがき   
  感覚を言葉にかえて受けとめる心は痛みのほんとうを知らない    
 
 人の痛みを理解することは可能だろうか。痛みを持つものと向き合うこと。その関係のなかでは言葉がいやおうなく介在する。言葉によってしか伝えられないことと、言葉によって繋がること。一首目は、そういう言葉への信頼があるし、ささやかな希望も見えている。二首目は痛みを言葉に変換することの限界をいう。現実を生きる人から発せられることで、錨はしだいに本質に深く降りてゆき、言葉は原初的な意味合いを孕むことができる。
 
「明日殺されても自分の仕事をするだろう」イラクの医師は語る〈言葉〉を   
 
世界的に言葉が相対化し、無意味化するなかで、この作者はより根源的な言葉を探ろうとしているかのようだ。ここで引用された〈言葉〉には、この「イラクの医師」が自分で選び取った生き方への強い意志が伝えられている。こういう厳しい現実を包含することで言葉は確かな力を持つことになるのだろう。
 
  水平になるところまでゆっくりと歩いてゆかねばならぬと思う  
  臨床は詩である四月しずかなる沼の深さにわれを問う眼は     
 
 臨床の現場を立脚点としてどこまで言葉を深めることができるのか、この作者にとっては言葉は現実へ向かう継続的な意志そのものでもある。この歌集をとおして、強い意志を言葉から感じる。そして或るときは、恩寵のような美しさを秘めている詩の一行をもさしだしてもくれる。多様な文体と思索の深さに魅了される時間がこの一冊の歌集にはある。
 
   白樫の丘のかなたに瑠璃色の海のきれはし見ゆるあくがれ