大森静佳 「てのひらを燃やす」
大森静佳の第一歌集「てのひらを燃やす」を読んだ。第一章巻頭は角川短歌賞受賞作「硝子の駒」。この連作は「私」という視点がはっきりとあり、その視点を通して感情が丁寧に描かれていく。それは恋人と過ごしてゆく時間や景物であり、独特の陰影をつけた表現が深い印象を作っている。
カーテンに遮光の重さ くちづけを終えてくずれた 雲を見ている。
もみの木はきれいな棺になるとうこと 電飾を君と見に行く
レシートに冬の日付は記されて左から陽の射していた道
どの歌もとくに難解ではなく安心して読める。連作の中に「わたし」という視点が明確にあり、言葉は心情を丁寧に描きだしている。どちらかというと近代短歌本来のつくり方を踏襲しているので、多くの読者の共感を得られたのもうなずける。
しかし歌集を読み進めるにしたがって、大森の言語観が変化してゆくのを感じる。それは「言葉はわたしを描けるのか」という課題から、「思考は言葉に追いつくことができるのか」という孤独な挑戦をしているように思える。歌集の最後の歌を引く。この歌が、大森の現在であろう。
言葉にわたしが追いつくまでを沈黙の白い月に手をかざして待てり
言葉を、感情や思考に奉仕させるのではなくて、言葉を先に打ちたてることで、新しい意識を生み出そうとしている。固定した視点は消されているから、読者は戸惑うかもしれない。しかし、文芸とは本来、言葉の造形力によって成就される芸術であったはずである。そこには当然、言葉は「虚」であるという前提は忘れられてはならない。が、虚であるからこそ、現実以上に深い世界を作り出すことができる。大森はすでに自意識を既成のものとしては描かない。言葉を通してふるえるような鮮やかな世界との出会いを期待するのである。
これでいい 港に白い舟くずれ誰かがわたしになる秋の朝
この歌には更新されてゆく「わたし」を全的に受け入れそして身をゆだねる時の幸福感が満ちている。
つぎつぎに鶴を産むのよゆびさきを感情をどこへもとばさぬように
言葉で内的世界に迫ろうとする緊迫感があふれている。「鶴」はおそらく古い意識から解き放たれた鮮やかなイメージであろう。言葉と感情がぶつかり合い、躍動する感情が噴出する瞬間の怯えが伝わってきて美しい。
大森は言葉を無条件に信じているわけでない。
奪ってもせいぜい言葉 心臓のようなあかるいオカリナを抱く
こころなどではふれられぬよう赤蜻蛉は翅を手紙のごとく畳めり
風に散る紙を一枚ずつ拾いここがわたしの世であったこと
一首目、言葉を拒否しながら、「心臓のようなあかるい」と比喩することで、やわらかな感情を立ち上げている。比喩は言葉の力そのものであり、あらたなイメージは魂を救うこともある。二首目の「こころ」も既成の言葉への不信であろう。三首目は、さみしい風景だ。風に散る紙は「言葉」そのものであり、空虚な属性を暗示している。しかし「わたし」はそれを一枚、一枚拾い集めるしかない。大森は、ひとりでそういう世界へ行こうとしているのだ。
空はいつわたしへ降りてくるのだろう言葉の骨に眩みゆく夏
かろうじてそれはおまえのことばだが樹間を鳥の裸身が揚がる
繰り返し言葉への思いを詠う。寄ろうとしたり、怯えたり。しかし一貫してあるのは「言葉」への強い憧憬であろう。言葉をとおして世界とひとつになりたいという激しい希求があるように思う。
たましいよ ブイは皓歯のしずけさで並んでいるがおまえも行くか
「たましい」が誘われているのは、「ブイが皓歯の静けさで並んでいるような」定型詩そのものであろう。静かな言葉の世界へ「たましい」はまだ届いていない。そこへ行き着きたいという切実な祈りがボルテージの高い言葉で伝わってくる。言葉によって現実を超えた長い時間が紡ぎだされ、死をも絡めとった次元を超えた世界で初めて見えてくる自分というものがある。それは寂しくもいとおしい生の姿である。
生前という涼しき時間の奥にいてあなたの髪を乾かすあそび
どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす