眠らない島

短歌とあそぶ

山本夏子 「スモックの袖」


山本夏子の歌にはゆるぎのない芯のようなものがあって、読んでいてここちよく信頼できる気持ちがする。新しい歌が溢れる中で、技巧に走るでもなく、奇想をとりこむでもなく、題材に凝るわけでもない。ふつうの生活をふつうの素直な文体ですくいとる。それでいて掴みどころのない普通の生活をあざやかな切り口で引き出して、生活し、生きてゆくことの本質をシンプルに見せてくれる。ありふれた生活の中のこころの揺らぎや、あてどなさが新鮮な言葉で語られるとき、その瞬間を共有したような幸福な気持ちになるのはなぜだろう。ここには、自身のすがたを必要以上に大きくも、また卑屈にも見せようとしない公平で澄んだ感性がある。過剰さを丁寧に排除することで、コップ一杯の清らかな水をくみ上げている。
現代短歌7月号の「スモックの袖」を読んで深い安らぎを抱いたのは筆者だけではないだろう。
 
たまごやきひとつ家族で切り分けてそれぞれ持って行く場所がある
かみさまはお金がいちばん大事だとふいに子が言う電車のなかで
一日中鍵かけておくロッカーの暗がりへ置く私物はすべて
 
1首目、この作者の主題のひとつに据える家族。たった三人の家族であっても、家から出るとすでにそれぞれの生きる場所がちがう。小さな孤独にはたまごやきというささやかな食べ物が最適。二首、ちいさな子どもがお金が大事というときの驚き、そしてたじろぎが伝わってくる。無邪気にみえる幼子にも、社会の酷薄さは見透かされている。その本質的な洞察はまるでかみさまの言葉のようだ。3首目、これも社会性にふれてくる歌。働くということは、私的な時間を切り売りすること。その認識を、感傷を抑制して無駄のない言葉で言い切っていてゆるがない。
 
街の灯がひとつひとつと消えてゆくさみしい時間を朝日はのぼる
くちばしで鳩が引っ張り合っているパンから赤いジャムがはみ出す
明るさを残したままで枯れているつつじの道をまっすぐに行く
 
この三首は、この作者の感覚のよさを十分に表現する歌と思う。1首目、この歌を読んで、都市の夜明けは灯が消えていく時間なのだということに改めて気づかされた。そしてそれをさみしいと見る主体のこころのありように感銘を受ける。朝日がのぼることに徒労のような空虚を感じてしまう生活の姿が浮かび上がって印象深い。2首目、鳩は雑食でどん欲な鳥。その鳩がパンを奪い合う姿を見逃さない。赤いジャムが見ている側の心の傷のようで痛々しい。3首目は好きな歌だ。躑躅はいちどに散ることがなく、盛りを過ぎると、色が落ちた花と、まだ褪せていない花が混在していて、あまりきれいな景ではない。そこを「明るさを残したままで」というとき、道端の躑躅にもわずかな希望を見ようとするこころに救われる気がする。

 この連作は、人がふつうに生きることの寂しさと希望、あるいはおおげさだけど尊厳のようなものを示唆していると感じる。おそらく現実にむかう謙虚さがそういう印象をもたらすのだろう。
そのほかにも好きな歌がたくさんあった。
 
大きさで家族三人描き分けて画用紙のなかでも手をつなぐ
干し草の匂いの髪を湿らせて音より先に雨が降り出す
ふと人に話してしまう夢があるはちみつ色に照る春の月