眠らない島

短歌とあそぶ

辻聡之  第一歌集 『あしたの孵化』


あれは滝を見にゆく人の列そしてこれは遠くから見るぼくの夢  
 
辻聰之の第1歌集が出た。ひそかに待ち望んでいた歌集である。辻の歌が好きで、その良さをどう伝えてよいか困ってしまう。軽快でエスプリが利いているけど、ひけらかさない。大きな声では主張せず、どこまでもこまやかで言葉が慎ましく行き届いている。おそらく自分が感じている幅よりもはみ出しそうな表現を小骨をぬくように丁寧に除いていて、言葉に負荷をかけない。そんな心遣いがどの歌にも見られて、自然に心を添わせてゆける。そして、なによりも好ましく思えるのは、少年のようなやさしい恥じらいがきらりとひかり、生きてあることの哀しみをさそう。そういうとなんだか淡い感じにも思えるが、そうでもない。感覚だけにたよらない鋭い認識があり、それが世界の奥行を深くしている。とてもカジュアルな言葉で、しっとりした抒情を立ち上げてくる。誉め言葉ばかり並べたが、ようするにとても感覚がよくてうまいのだ。
 
冒頭に引いた歌はこの歌集のなかでもちょっと不思議な歌である。「滝を見にゆく」という連作のなかの1首。実際は列に並んだかもしれないが、歌のなかでは滝を見る人の列から「僕」の意識はとおく離れている。列にはいることにひそかな恥じらいがある。それが、「遠くから見る僕の夢」なんだろう。ここにこの作者の歌の生まれる場所がある。
 
通り雨過ぎたるのちの「にじ!」という子どもの声に虹現れぬ   
待ち合わせ場所へと続く国道に<橋を作っています>の看板 
辻々のゆきだるまへとふるあさひ大人は向こう側へ行けない  
 
1首目、子どもの声に反応して掬い取った一場面。子どもの声が先にありそのあとに虹を認識する。世界の事物がわたしたちの前に現れる瞬間の新鮮さをシンプルに保存している。2首目、これも身の回りによく見かける光景かもしれないが、感覚がなければ見過ごしてしまうところを、うまく摑まえている。「待ち合わせ場所」へゆくときのこころがまさに<橋をつくっています>状態なのだ。題材は、やはり主観とゆるやかに結びついてこそ、かがやきを放つ。3首目、ゆきだるまを見て、失われた世界をそこに見るしなやかな哀愁。これを郷愁といっていいか。
 
二十数年ともに暮らしし弟の恋を知らざり知らざれど兄   
悪意から遠き足裏ちいさくてふれれば魚のように逃げゆく   
わたくしの見たことのないさみどりに弟とその妻が記す名  
かつて吾をそらへはこびし肩車に金木犀の花ふる余白      
 
今回、歌集を読んで家族の姿がとてもクリアに詠まれていて新鮮だった。湿っぽくならずに、それでいて情感があふれるように描かれている。1首目のようにさらりと弟を登場させる。なんの修辞もないが、「知らざれど」のリフレインに兄弟の屈託をさりげなく表現している。2首目は結婚した弟の子を詠んでいる。若い歌人でこんにも手放しで新生児を聖なるものとして詠めることに感心した。それはこの作者のピュアなこころだ。3首目、離婚する弟夫婦をスケッチする。人と人との出会いと別れ。家族であるなら痛みに思わぬはずはない。それが当事者ではないからなおのことやるせなさが残る。「わたくしの見たことのない」あたりに哀感がしずかに滲んでいる。4首目は、父との過ぎし日を詠んでいる。
ここにも少年だったころの幸福感が、「余白」にこめた喪失感をかさねることで美しくよみがえっている。
 
わたしくも誰かのカラーバリエーションかもしれなくてユニクロを出る  
働いてお金をもらう咲いて散るようにさみしき自覚をもちて  
すれちがう傘はわずかにふれあって人はだれかの影響圏内     
つよいことばよわいことばがたたかってかったほうからあなたにとどく  
 
引くべき歌はたくさんあるが最後に3首。ここに挙げた3首は、生きづらい社会にあらがいながら自身の生きる場所を求めようとする姿勢が鮮明で、この歌集のひとつの柱を生しているように思える。1首目、社会の中で自分自身の色を保つことの困難さがあり、そういう画一化に抗う内面がある。2首目、働く歌。職場の歌はたくさんあってそれぞれにいい。職場はあるいは労働はさみしいのだけれど、そこにも確かな共存関係が発生する。その淡い関係性を3首目はよく捉えている。このあたり、とても冷静な認識が歌を支えていて広がりがある。4首目はさまざまに詠める。社会詠として読んでも納得する内容があって深く受け止めた。
 
相聞歌に触れなかった。家族が縦糸なら相聞はあてどなくて、しなやかな時間の横糸を組んでいる。やはりまぎれもない青春歌集だ。
 
ぼくは右岸、左岸のきみに呼びかける千の言葉を吊り橋にして