眠らない島

短歌とあそぶ

大森静佳 『カミーユ』


狂うのはいつも水際 蜻蛉来てオフィーリア来て秋ははなやぐ   
 
歌集を読み始めて、深く掘り込まれた奥行きのある歌に揺さぶられるような眩暈を覚えた。歌の数は240首と多くはないのにその重量感は圧倒的だ。一首ずつに、陳腐な言い方をすれば魂が捻じ込んである。そのために、ある歌は捻じれ、断絶し、大きく振幅する。崇高さは心を揺さぶり、美は心を惹き寄せるという言葉を聞いたことがあるが、この歌集の方向は、どちらかというと前者だろうか。ここに大森の高い矜持がある。
 巻頭に引いたのは、歌集の巻頭の歌である。歌集の意図が鮮明にされている。ここでいう「狂う」とは何物も介在しない研ぎ澄まされた心の状態をいうのだろう。この歌集では頻繁にでてくる「感情」ということの純粋なありかた。それが成立するのはいつでも二つのカテゴリーの境界でしかない、ということか。大森はそこにこそ自分があり、世界が成立する可能性をみようとしているようだ。そのための一つの方法が異形の姿に身を変えることであろう。巻頭歌でいえばオフィーリアに化身することで人間の普遍的な罪や、悲苦をその背景にある人類の文学遺産から引き出そうというのだ。

雨沁みた重たいつばさ 感情は ( さき )がもっとも滅びやすくて    
 
個人の感情は、いつも時間性にさらされることでたちまち色あせてしまう。大森は肉体の限界を知悉している。それゆえに、時間性や空間性を超えた肉体を歌の中に実現することで、より普遍的な感情を目指そうとするかのようだ。それは釈迢空が目指した叙事詩的な方法に近いのかもしれない。釈迢空は、普遍的なそして古代的な民族感情を短歌に取り入れようとしたが、大森はさらに彫りの深いなまなましい感情を歌に彫り込もうとする。
 
そのひとを怒りはうつくしく見せる〈蜂起〉の奥の蜂の毛羽立ち  

でものどがただれてしまうしんじつはゆるがるれゆるがるれまぶしくて  

黒い馬、だったらよかった。わたしも。青空がずたぼろにきれいで 
 
ひとがひとに溺れることの、息継ぎのたびに海星 ( ひとで )を握り潰してしまう 

 1首目、戦前ナチスに抵抗し殺されたゾフィー・ショルに取材した連作。本質的な「怒り」を蜂の毛羽立ちに巧みに託している。二首目は、「曽根崎心中」に仮託した一連の掉尾の作品。表現がなまなましい情念を孕んでいる。3首目、チンギスハーンの夭折の妹テムルンの言葉になり替わっている。4首目は、歌集のタイトルにもなっているロダンの恋人カミーユへの化身。どの連作も読みごたえがある。文体は重く粘りつくようで、言葉の選択は緻密であり、分厚く奥行きのある感情を強く引き出さずにはおかない。ここに登場する人物たちはそれぞれ、置かれた状況のなかで深く引き裂かれている。
 
〈在る〉ものは何かを裂いてきたはずだつるつると肉色の地下鉄   
 
 人間存在が必然的に引き裂かれていることは周知ではある。しかし、日常的にはそれは見えてこない。大森は、そのことにとても敏感な感性を持っているから、見ないでいることに耐えられないのだ。その葛藤を表現する言葉を懸命に探し、それをもっとも顕在的に、普遍的に形象化した形がさきに挙げた歌群である。こうした作品を創作する動機には何かから自由でありたいという強烈な渇望があるように思う。それが歌を太いものにしている。
 
一方で、とても静かで上質なポエジーに包まれた歌も多くある。
 
見たこともないのに思い出せそうなきみの泣き顔 躑躅の道に   
朝。シャツを脱いできれいなシャツを着る異国の闇を手に探りつつ   
 
1首目、記憶と時間が反転するような瞬間、それはたいがい悲しみの感情であろうが、それを巧みにとらえている。二人に流れた時間と、感情の交叉が美しく描かれた一首だ。2首目、モンゴル訪問のときの連作から引いた。シャツを着替えることで身体性が立ち上がる。それは世界のなかに在ることのすがすがしい感覚だ。こうした歌も、もっと読みたい。
 
夜の道にビニールハウスの群れ光るここはこころの外だというのに
 
この歌を読んで考えさせられた。見ているものは心の外部であるけど、こころが見ているということからすればそれは、こころそのものでもあると言える。こころの内と外とは何だろう。シンプルな表現だけど、ここにも「境界」が立ち現れて揺さぶりを掛けられている。この問題には答えようもないけど、まったく世界は不思議に満ちている。
 
時間さえ時間に疲れるということを見ていたバスの窓の銀杏に