眠らない島

短歌とあそぶ

大辻隆弘 第八歌集 『景徳鎮』

 
  かぎりなき遠さを保ちゐるごとく水辺にひらく夕べの合歓は   
 
 
 歌集をとおして圧倒的な重量感のある歌の嵩に押されそうになる。ときおり、ひかりが差しこむように美しい叙景歌が立ち上がっているのだが、それだけに影の部分の濃さが際立つことになる。この歌集の重さはやはり、「死」と「性」という相対する、そして極めて類似している二つの主題であり、その主題を表出していく粘着力のある文体からくる印象だろう。短歌ではなかなか大きなテーマを詠むのは難しいと言われ続けてきたが、大辻はあえてこの根源的な難題を三十一音という定型詩によって詠むことを試行している。そして、それは練り上げた屈曲のある文体によってほぼ達成された感がある。「死」も「性」も、極めて個人的な状況の場であらわれる。それを表現する過程には、客観視することのできる冷徹な眼差しが必須であろう。そして、粘り着くような悲哀や情欲を立ち上げる錬磨された技巧。それがなされたとき、作品のなかに美があらわれるように思える。
 
 
(はぜ)釣りに倦みたるわれを宥めなだめ機嫌取りをりしが遂に怒鳴りたり 

食絶えて久しき父があらうことか今生に( つひ)の排便をせり   

臭ないか臭いことないかとあまたたび父は訊きにき身を横たへて 
 
病める父の時間と対峙するなかで、死とは、人が死んでゆくとはどういうことかを繰り返し執拗に問いかける。また、死にゆく父と向き合うことは、肉親としてともにあった自身の記憶をあぶりだされずにはおれない。一首目は、ありし日の父と子の関係を無残な形で詠んでいる。あられもない父の怒りを粉飾なく書き留めることで、より生々しい父の姿が再現されている。初句からゆらゆらと読み下す口調が散文的であり、まぎれもない他者としての父との関係が見事に捉えられている。
二首目、死に近い父の排便に驚くその心理とはなんだろうか。ここで「死」はどこまでも観察されている。死ぬまでは生きているという肉体の酷薄さにおののき、そして父の「排便」を不思議にも敬虔なものとして突きつけられている。文中に挿入されている「あらうことか」という文語的な詠嘆が効果的だ。
三首目、これは「にき」とあるので回想のなかの場面であろう。過去と現在にわたる意識が重層的に読み込まれて一首に陰影をもたらしている。回想のなかの父のせりふが痛々しい。どこか宮沢賢治の詩にでてくるトシ子の姿と重なってくる。死の際に、自身の肉体の放つ匂いをいたましいほど恥じらう心情の素直さが切実に聞き留められている。これも「死」の現実であり、それゆえ神聖な感じも受ける。
 
六月のひかりのなかに( ひと)を恋ふ風が ( かたど )るその乳房など    

夜をこめて悲しみをれば悲しみは鈍き疲れとなりて鎮もる   

餡パンをほほばり鮭おにぎりを食み逢ひたさは午後きはまりにけり  

ひとつこゑ落としてひとはきはまりぬ水際のごとく冷ゆるその声 
 
 前者の「死」がどこまでも父の死であったことに対して、「性」は作者自身の肉体を通してあらわれる。一首目、恋したうことと性欲をもつことが不即不離のかたちで兆す瞬間をなんとも美しい技巧をほどこして詠み上げられている。
二首目、「夜をこめて」思う悲しみが実体あるもののように描写されて存在感がある。「鈍き疲れ」という把握が苦しみをよく捉えている。
三首目、欲望ということがどんなに切ないことか、滑稽味を加えて詠みつつ実感を伝えている。三首目、性愛のきわみの至福をえがきながら寂寥が漂っている。ここには「性」が「死」へと反転してゆく瞬間の微妙さを「水際のごとく」という喩によって卓抜に捉えられている。
 
    まだ死者と呼ばれぬままに横たはるひとを思ひぬ麺麭を裂きつつ  
 
この歌には、はっとさせられた。「ひと」は生きているわけだから「死者と呼ばれぬ」のは当たり前なのだが、「性愛」が「死」に接近してゆくという感応がある。ここでは自身の「死」も巻こみながら欲情してゆく性愛の本質を捉えている。人間存在を根源的に認識して、陰影の深い一首となっている。
 
 
歌集のなかには、震災詠と読める歌や、社会詠、写生詠など多彩な題材がとりこまれていて厚みがある。しかもどの歌も申し分なく推敲されて完成度が高い。その錬磨された文体の美しさには、何度読んでもため息がでるばかりだ。
 
     夏の川みづ行くことも寂しくてやがて一人に還らむこころ