眠らない島

短歌とあそぶ

足立尚彦歌集  『ひろすぎる海』


うつむけばひろすぎる海 見なくてもひろすぎる海 うつむいている  
 

みずみずしいこころがそのまま言葉に包まれているような歌。悲しみを詠みながら、読むものにぬくもりを残して消えてゆく。老いを詠みながら、少年のような憧れや含羞を垣間見せてしまう。そんな歌が足立尚彦の『ひろすぎる海』には詰まっている。
足立の歌は、一見無頼派で、無勝手流な詠みぶりであるが、実は三十一音の隅々まで、こころがゆきとどいている。大胆に見える口調に、震えるような感覚が働いている。また、歌集中には少なくない社会詠が収められている。どんなに個人的な生活の領域にあっても、つねに大きな世界のなかで存在しているという意識がこの作者の歌を見晴らしのよいものにしている。それは、ひるがえって自分自身に対しての距離感にも反映している。境涯詠を単なるつぶやきに終わらせず、自分をつきはなすことで、私性から純粋な詩性を立ち上げている。やわらかな口語文体に、上質な抒情詩として昇華された情感がゆたかに流れている歌集と思う。
 
コンビニのプラスティックのスプーンが悲しく浅い。真夜の炒飯
電線に電気が流れていることを忘れて道を歩いていたり   
あることを思いだしたりしていてもそのあることの虚構の深さ   
 
 
 一首目、特に解釈の必要のないくらいわかりやすい歌。一人暮らしの悲哀がまず読み取れる。しかし、それだけだろうか。「コンビニのプラスティックのスプーン」という細やかな物に焦点を絞ることで、途方もない資本主義経済の末端に存在し、生きているものの影があざやかに浮かび上がってくる。この歌のように、作者の悲哀は孤独で個人的なものでありながら、どこかで世界の悲しみと共存している。そこに、突き抜けてゆく風穴のようなしなやかさを感じる。
二首目、これもあたりまえのことを詠んでいるだけだ。でも、あたりまえのことをあえて言葉にすることで、なにか異様なものが浮き上がってくる。それは、システムということだろうか。張り巡らされた電線に電気が流れていることで、私たちの日常生活は支えられている。しかし、そんなことも普段は意識もしないで生きている。そのように無尽の見えないシステムのなかで生かされているのがわれわれの有り様なのである。
三首目は、不思議な歌。記憶ということを詠んでいるのだろうか。事実とはすでに記憶でもある。記憶になった瞬間に、すでになんらかの操作が加えられてゆく。虚実皮膜というけれど、事実ということにいつも懐疑の姿勢を持ち続けているこの作者の理性の確かさを思わせる一首である。
 
おじさんは臭いだろうよおじさんはむかしも少年臭かったんだ
小型犬がどこかできゃんきゃん吠えていて秋の空気はいよいよ澄めり  
貨物列車の音を聞く夜コンテナはかなしいものしか包んでおらず   
夕焼けはひとりに似合う色にしてさあさあ皆を泣かせてみなよ   
 
歌集のなかで、特に好きな歌をあげてみた。どの歌にも、控えめなペーソスがあり、気負いのない言葉がここちよく心に添ってくる。ここにあるのは端的にいって感傷であろう。しかし、感傷こそが、抒情詩の核であるともいえる。純粋に感傷できることは、澄んだ知性の力でもある。そんなことを思うことも余計か、と感じるほどこの歌集はここちよい。
 
 
雨音のやさしい未明 夢なのか過去なのか妻はしずかに死にゆく