眠らない島

短歌とあそぶ

若山牧水 『別離』  読書会資料続き

明治43年
  1月1日『独り歌へる』出版
     明治41年4月から42年7月まで  551首
  3月 雑誌『創作』創刊
  4月 歌集『別離』出版
5月 小枝子に女の子が生まれる。庸三との子ではないかとの疑念にさいなまれる。
千葉に里子に出されるが、養育費を払わねばならず、精神的経済的に苦しんだ。
 
  1. 7月29日(飯田武冶宛)
人生、人生何と底深く心を引く言葉ぞ。どうにかして今少し落ち着いてこの問題を考えさせて貰いたい。わが生の姿、遠く遙かに眼にうつる時、僕は常に呼吸を留めてそれと共に語るらむことを欲する。しかもそれは忽ちに消えていってしまう。僕は実際行脚か何かに出かけたい。暫くでもいいから、この懐かしいわれというものと密語抱擁の哀楽が味わいたい。こうかすかすして生きていて何になる。何処ぞ遠くの山の間か何かを彷徨っているわれの姿が寂しく眼に浮かんで耐えがたい。
 
  1. 8月22日(飯田武冶宛)
 
君の手紙は事実数編の詩、小説を読むに値した。高山国の平原の秋を知らぬ身は一首の食欲めいた憧憬を感じた。
君の身にたいした変化の起こらぬ間に僕の方には面白い現象が生じた。「創作」の編集をよした。そして他から追われ、自分から追われ誘われ兼ねての希望の一つであった行脚の途にでる。少なくとも三四ヶ月は帰ってこないつもりだ。この行脚において幾分例のわがままをつくし得れば甚だ幸いである
 
9月 東京を離れ、山梨県境川村に飯田蛇笏を訪ねた。
信州小諸に滞在しているとき、小枝子が訪ねてくる。
 
この年から翌年にかけて乱酒により生活が乱れる。
 
明治44年
  1. 書簡3月 14日(平賀財蔵宛)
   先日来から度々母が危篤だから帰れとの電報が来ているのであるが、これでどうして帰られよう。今度帰らねば一生一切の縁を切ると親類からの手紙も来た。帰ろうにも帰られないからねえ。実に切ない。いろんなことがよく一緒になるものだ。五年来の女の一件も、とうとうかたがつくことになった、連れられて郷里へ帰るのだそうだ。それがお互いの幸福には相違ないがね。いざとなると矢張り頭がぐらぐらする。何一つ手につかないから、飲んでばかりいる。
4月 千葉に里子に出していた子が死亡。
  「比素一連」を書く
ようやく、小枝子との決着がつく。
小枝子は牧水と別れてのち、大正9年庸三と結婚、昭和47年、88歳で亡くなった。
 
  1. 明治44年6月9日(小川水明宛)
 
近頃、だんだんお歌がおもしろくなって来ますので、誠に愉快です。一回ごとに歌が澄んで、参りますねえ。澄んで、明るく、細かく、震えているのがなによりうれしい。けれども、油断をすれば、例の新古今集の歌になりやすい詠みぶりなのですから、用心をしてください。心を。いのちをば、どこどこまでも澄ますのはいいが、眼を細くするのはいけません。眼をばやはりどっしりと、動きなく、明らかに据えておかなくてはなりません。ただ、澄んだのみが決して能ではない。力がなくてはもう駄目です。君のはあの何処までもいらいらしているところに生命があるのですから、あれを失わないようにしてください。型にはまってはいけません。身をばそばめてはいけません。内心はいつも大胆不敵でなくてはこまります。
 
 
 
伊藤左千夫との論争」
 
  1. 伊藤左千夫  明治43年6月『アララギ
短歌研究
 
春真昼ここの港に寄りもせず岬を過ぎて行く舟のあり
 
これも前々の歌と同じく、詩題は甚だ面白い。時期に同感の起こる詩題である。けれども、例によって、この詩題を活かすべく、詩句の校正は頗る粗末である。感じが生動しないから、想までがありふれたものの様に思われる。だが、今日我々の問題とするところは、想の古い新しいではない。創作が生命を得たか否かの問題である。歌が生きて居るか否かの問題である。(略)
春真昼ということをこの歌にては言う必要があるにしても。こう初句にかぶせていっては所謂頭勝ちで一首の形が整わない。初句に春真昼などと充分に圧搾を加えた言葉を使っておきながら、次からは直ぐ、だらだらとしまりのない言葉を綴っている。(略)岬を過ぎての一句が挿入されたから、一首の調子は全然弛緩して終わったのである。
 
 添削  静かなる春の真昼を煙立てここには寄らず行く舟のあり
 
  1. 若山牧水  明治43年7月『創作』
 
アララギ」はいうまでもなく根岸派を代表する雑誌である。されば歌の内容外形とともにまず何よりも格調の高さに重きをおいてあるので、私らごと不作法幼稚な調子で詠んでいる者の歌はさぞかし卑近に乱雑に、また腹立たしくも見ゆるに相違ないと誠に恐縮に思う。「短歌研究」中の批評も主として措辞の無雑や内容の散漫なのを指摘してある様である。かねて覚悟していたところではあり、随分と身に染みる箇所もあった。
けれども、それら部分的の欠点を除いては不幸にして私は諸氏の諸説に服従することの出来ぬ箇所が多かった。なぜ、出来ないかという根本の説明は、議論下手の私には到底出来そうにもないので、それをば見合わすけれど、要するに私は諸氏が常にかくのごとき態度で歌に臨んで居られるのであれば、角を矯めんとして酷殺せらるる牛の数がさぞかし甚だしい事であろうと切実に感ぜざるを得なかったのである。なんとなく口幅ったい言い方だけれども少しくらい眼がかすもうと、口がゆがもうと、私は生きた人間の歌が詠みたい。眉目整然たる人形をば作りたくはないのである。(中略)
私は自身の歌を詠むときにおいて、その歌の極めて印象深く鋭からんことを欲する。如何にせば、我が思うところを何等弱むることなく、小さくすることなく、変形することなく発表し得るかという事において苦心する。そのためには、あらゆる手段を選びたくない。だから結果においては説明を用いることもある。散文口調になることもある。あながちに、いわゆる韻文そのもののために盲従することを欲しない。
 
 
  1. 伊藤左千夫  明治43年10月『アララギ
 
牧水氏は我々に生きた人間の歌を詠みたいというが、我々は生命ある生きた歌を詠みたいと主張しているのである。この我々の生きた歌を詠みたいと主張した事に反対している牧水氏の言を少し精細に聞いてみたいものである。