近代短歌を読む会 第5回 若山牧水 『別離』
第5回 若山牧水 『別離』
〇 参加者の三首選より
摘みてはすて摘みてはすてし野のはなの我等があとにとほく続きぬ
健やかに身はこころよく餓えてあり野菊のなかに日を浴びて臥す
彼の国の清教徒よりなほきよく林に入りて棲むまむとおもふ
晩夏の光しづめる東京を先づ停車場に見たる寂しさ
空の日に浸みかも響く青青と海鳴るあはれ青き海鳴る
椅子(いす)に耐えず室 ( へや )をさまよひ家をいで野 ( の )に行きまたも椅子のかへりぬ
わが死にしのちの静けき斯る日に頬( ほほ)白鳥 ( じろ )の啼きつづくらむ
海の声断えむとしてはまた起こる地に人は生まれまた人を生む
悲し悲し火をも啖ふと恋くるひ斯くやすらかに抱かれむこと
海の上( へ)の空に風吹き陸 ( くが )の上の山に雲居り日は帆のうへに
ひややかにつひに真白き夏花のわれ等がなかにあり終わりけり
栗の樹のこづゑに栗のなるごとき寂しき恋を我等遂( と)げぬる
君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ
春(はる)真昼 (まひる)ここの港に寄りもせず岬を過ぎて行く船のあり
〇 参加者の意見
- ひらがなを多用し、リフレインを織り交ぜるおおらかな歌いぶりの調べのゆたかさに魅了される。「摘みてはすて」の歌には鳥瞰的な視点が感じられ、ひろがりがここちよい。
- 「健やかに」「彼の国の」の歌も、言葉を埋めすぎないゆったりとした余情が感じられる。一首全体にゆとりがあり、その空気感と自然への親和性とがうまくとけあっている。
- 「晩夏の光しづめる東京の」のフレーズはきわめて魅力的だ。「光しづめる」にはするどい感覚がはたらいており、大都会東京の寂寥感をひと言で言い表している。現代短歌として読んでも遜色はない。
- 「椅子」の歌は不思議な世界だ。意識が堂々巡りをしている。「椅子」という道具を使いながら閉塞した自意識を非常に繊細に描き出している。
- 「わが死にし」の歌には自分の死後の世界が静かに描かれている。こうした発想は現代短歌にも見かけられる。
- 「悲し悲し」の歌にはK音が全ての句に入っており、力強い感じを与える。
特に二句目の表現が優れている。「悲し悲し」など、単純な表現で恋愛を歌っているが妙に生々しさを感じさせる迫力がある。
- 「海の声」の歌からも考えられるが、牧水は日常を捨象して感情を純粋に詠もうしている。そのあたりが、印象として物足りなくもあり、またおおらかで純粋なしらべのよさをあたえる。
- 「君かりに」の歌では海に嫉妬している牧水がいる。まるで「わたつみ」が生命そのもののように認識されている。ある種のアニミズムでもあり、また古代性も感じられる。このあたりに牧水と自然との関係が浮き彫りにされている。牧水にとって自然は単なる鑑賞の対象ではなく世界そのものでり、自己自身でもある。
- 「海の上の」の歌には、明るさを自分の中に引き寄せるような感覚が働いている。そこには自意識はかき消えて、魂が体からあこがれて出て行くような、幽体離脱のような状態が想像される。牧水独特の資質である。
◎ 感想
明治43年に伊藤左千夫は「歌の新しさとは」というタイトルで、当時の「新しい歌」を量産する若い世代へ厳しい警告を書いている。まさに、近代短歌が台頭していくなかでの古い世代の焦りとも受けとめられたかと思うが、言葉の浮ついた歌を激しく非難するその文章には真に胸を打つところがあった。
現代もまさに「新しい歌」が声高に言われている。果たして、明治43年のころのように新しい歌が誕生しているのだろうか。
今、新しいと思っていることは、実はこの明治43年世代の若者達が骨身を削って切り開いてきた場所であり、既にほとんどのことは試みられているのか、というのが正直な感想である。
また、牧水という人に関していえばありきたりな言い方だが、希有な資質をもった歌人であるということか。わかりやすそうで、実はこの人独特の感受性がある。自然への感応のしかたは一種の古代性なのかもしれない。身も世もなくなってしまう感じ方が恋愛にも反映されているようだ。
また、調べの問題もある。まだまだ考えなくてはいけない。
【参考資料】(全て新かなに変えています)
「三人の女性を巡って」
〇日高ヒデ
明治19年2月細島町に生まれ、
生家は船問屋件旅館をしていた富豪の家である。
ヒデの兄安之助が早稲田大学哲学科に在籍しており、牧水の友人。
明治39年7月、
郷里に帰省する際、神戸から細島に上陸し、親友の鈴木財蔵に逢った。そして前から知り合いであった日高ヒデと三人で細島の海岸を散策した。
牧水と同郷で文学に興味をもつふたりは、友情以上のものをもった。
明治40年にかけて、ヒデは自身の恋愛問題で苦しむ。
10月、郷里への帰郷の途中、大阪の病院で急死した。
〇園田小枝子
明治17年9月、広島県豊田郡で出生。
複雑な家系の出自であった。夫園田直二郎と明治33年結婚入籍しており、ふたりの娘がいた。小枝子は肺を病んで須磨で療養していた。
明治39年7月、牧水は帰郷のため、神戸から細島に着いたが、友人の結婚問題にかかわって、そのまま神戸に引き返した。そこで、偶然であったのが小枝子である。
明治40年
小枝子は、園田家を離れ、結核の療養を続けているうちに、自分の境遇を思い、将来を考えて、東京に出て一人、自活の道を歩もうと決心し、40年4月初めに上京した。小枝子は牧水の下宿を訪ねる。
- 牧水書簡
「19日晴れればと祈っている。そしたら、僕は一日野を彷徨うつもりだ。一人ではない。が、恋でもない、美人でもない、ただ哀れな運命の裡に住んでいるあわれな女性だと思ってくれたまえ」 鈴木財蔵宛
6月22日帰郷の旅にて中国地方を巡る。
9月上京後、専念寺に下宿していた牧水のもとに時折小枝子が訪ねてくるようになる。小枝子はこのとき、従兄の赤坂庸三と同じ下宿に住んでいた。
人妻であった小枝子は、自分の素性を牧水に知らせることをしなかった。負い目のある小枝子の姿は悲哀の影をもたらした。
明治41年1月
千葉県根本海岸に遊ぶ。このときも、庸三との三人で過ごしている。
3月ころ下宿に訪問者があり歌集を出さないか誘われる。『海の声』
明治39年から41年春までの歌 475首
- 4月14日(鈴木財蔵宛)
僕は或る一人の女を持っている、その女をいま自由にしている、また、されている。恋というものだそうだ、こんな状態にある両個男女の関係を。なんという寂しいものだろう、(略)僕は君、これは真面目な話だが、もういっそのこと結婚してしまおうかと思う、そしたらいよいよ、淵の中に沈められたようで却って一種の安心を獲るだろうと思う。
7月 大学卒業
10月 新雑誌の計画
12月末、若松町に家を借り婆やをやとって移る。小枝子を迎えて新家庭を営むつもりでいた。
明治42年
友人を介して結婚を申し込むが、小枝子の意志がはっきりしない。
新雑誌の発刊も資金難により放棄。
- 書簡1月1日(鷺野芳雄宛)
海というと誠に自分には追憶が多い。生来海を好んでいたためでもあったが記憶すべき自分の出来事の多くは必ず海に連関して起こっている。第一があの「海の声」、あの中の歌は波の響きのある中でうたわれたものが極めて多い。特に安房の海辺でうれしいにつけ哀しいにつけ泣きぬれながら夢中になって歌った歌は、丁度昨年の今頃、太平洋のとある漁村の朝夕に自分の心に生まれ自分の唇に上ったものでとりわけ印象に深く残っている。ああ、耐えがたい、今もそれを思うと胸の底のしみじみと痛くなるのを禁じ得ぬ。
〇石井貞子
1月末、千葉の根本に一人で逗留する。
石井貞子に悲痛を訴える。この後、度々手紙を出し、交際を迫る
- 「とうとう一切に最後を宣告して、私は流浪の身となりました。事業の失敗、身体の病気、女との永別、その他無職貧乏、あらゆる敗北者が負えるだけのいやなことばを残すところなく備え付けて下宿におります」
4月18日 徴兵検査不合格
6月19日から『独り歌へる』を編集
7月20日 中央新聞社に入社したが、12月に退社
12月 東雲堂書店西村陽吉から雑誌出版の依頼