眠らない島

短歌とあそぶ

近代短歌を読む会 第四回 前田夕暮『收穫』 報告


 第4回   前田夕暮『収穫』(明治43年刊)
 
 
〇参加者の3首選より
 
 木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな
 
一の吾君を得たりとこをどりす二のわれさめて沈みはてたる
 
夜の空に鐘鳴る、街は死せるごと凪ぎたり君はわが前に泣く
 
水の上を遥あかるき悲しみに電車ぞ走る木がらしの夜
 
大鳥よ空わたる時何おもふ春の光を双の眼にして
 
風暗き都会の冬は来たりけり帰りて牛乳(ちち)のつめたきを飲む
 
をしみなく愛ししゆゑにわがままとなりし子なりと君の眼がいふ
 
卵ひとつありき恐怖(おそれ)につつまれて光冷たき小皿のなかに
 
君は泣くしづかに夏のたそがれの青葉の色のしづみゆくとき
 
受話器とるあまりにとほき海の音の君が言葉にまじるここちし
 
みどりさわぐ真昼の林ひとところまるう明るき光おちたり
 
○参加者からの意見
 
①「木に花を~」の歌は「待つ恋」がテーマであり、女性が詠む内容であるが、ここでは立場を逆転している。近代的な発想がここにある。
 
②「木に花咲き」の歌はどちらかというとをハレとすれば「一の吾~」はケの感覚であり、醒めた自意識を描いている。
 
③「夜の空に」の歌は、読みにくくない句割れ句跨りは、この時代では新しい文体に挑戦している。こうした初期からのちの自由律短歌へ萌芽を見せている。
④「あかるき悲しみ」のような対比は悪目立ちしがちな技法だがなんとか保っている。
 ただ、こうした反対方向の言葉を並べてある心情を表す方法は現代短歌でよく見かけられる。たとえば「乾いた悲しみ」のように。現代短歌が新しいのではない。
 
⑤「風暗き都会の」の歌は自然主義的な発想だが、「大鳥よ」の歌には自然主義の雰囲気はなく、どちらかというと 浪漫主義が勝っている。
 
⑥夕暮の中には浪漫主義、自然主義神秘主義の三つの要素が混在している。
自然主義を徹底することはしていない。
明治39年岩野泡明「神秘的半獸主義」の講演を聴き、大きな影響を受けている。
また、エマーソンの影響もあり、自然即神霊という発想を持つにいたる。
さらに、メーテルリンクの「恋愛も自然」といった観念も取り込んでいる。
こうした潮流から夕暮の自然主義は、田山花袋らとはかなり異色な内容となって変形している。
 
⑦ 「卵ひとつありき」は調べとしては外れている。すでに短歌というよりも詩のほうへ流れて始めている。散文的な傾向が強く出ている。
 
⑧ 「君は泣く」「受話器とる」「みどりさわぐ」など初句が印象的であり、歌全体も浪漫的な明るい気分がながれている。また「受話器」など、新しい題材を取り込んでおり、詩情が新鮮である。
 
 感想
前田夕暮は、二十歳のころ、『みだれ髪』に心酔している。しかし、その後、明星的な歌風から脱却し、自然主義的な歌風に転換する。その過程で夕暮は短歌から虚飾や空疎な美意識を捨てている。そして、より現実に即した描写力を手にしてゆく。そこには歌を近代化していこうとする真摯な姿勢が窺われる。歌に内面の葛藤や、暗部をも取り入れ、乾いた文体により近代的な意識を反映させることを意識的に試みている。こういう手法は現代短歌の修辞を脱した平板な描写のしかたに通じるものがある。出版された直後に、富田砕花は牧水よりも夕暮の文体に将来性を見ているが、慧眼だったと思う。
夕暮には常に新しい歌を開拓していこう、新時代を切り開こうとする気概がうかがわれる。世の評価を受けてから、歌人だけでく、小説家、詩人など広くつきあい、自ら主宰した『詩歌』には、萩原朔太郎を初めとした日本近代詩を確立した人材を集めてお互いに影響しあっている。そういう意味では、短歌の「近代化」を常に意識していた。ただ、歌を更新していかなくてはいけないという発想はひとつの文体を深めることをさせず、かえって歌の世界を散漫にしてしまう方へ働かなかっただろうか。
これは、現代の私たちへの課題でもある。

【参考資料】 抜粋 (新かな使いに変えています。)

1 明治42年の歌壇の様相


窪田空穂 (『文章世界』明治42年12月号


  今年の短歌界は一向にふるわない年であった。けれどもその賑やかなところのない中には、一部の人々に確かに進歩向上されたのがある事を私は信じている。全体からいえば、短歌の境がその人の気分本位になったという事実の殊に際立って見えた年である。


 その傾向は、最近萌芽したものであるが、今年はそれが多くの人に開かれ、そして歩調を整えて進んだように思う。同時に在来の短歌に一番重きを置かれていた調子というものが大分自由になってきて、よほど散文の趣きを取り入れようとするようになった。が、此らの傾向は歌壇そのものが動き出したわけではなく、周囲の影響からこうした機運に触れたのだと思う。


 2 前田夕暮自身の考え  『評伝 前田夕暮』より


  1.  私にたった一つ、歌を作る時の覚悟がある。それは正直に歌うということだ。        「卓上語」・「創作」明治43年3月号」
  2. 自分はいつでも通例人であらんことを願う。唯一箇の人間であったらそれでよいと思う。通例人の思ったこと、感じたことを修飾せず、誇張せず、正直に歌いたいと思う。          (『収穫』自序)
  3.  主観に熟した主観と覚めた主観と二つあるとしたら私のは覚めた主観かもしれぬ自分を客観的地位に置いて、少し離れた所から観て詠いたいのだ。
  4.  私は、何はさておいて、自分の生活を根底にして詠いたいと思う。極めて通例名、一凡人の生活が、少しでも私の歌をとおしてうかがわれたら、私はそれで満足したいと思う。

                  (『収穫』再版序)


  1.  自分は今の短歌を、直接の短歌と間接の短歌の二種に分かちたい。勿論その意味は、自然、人生に対する交渉をいうのである。そして派というものを分明にする場合があるとしたら、直接派と間接派の二個に分かちたい。そして、自分はその直接の人でありたい。


           (「卓上語」・「文章世界」明治43年8月)


  1. 一体、作品を通して、その作者の生活の状態が窺われなかったり、その人生観が暗示されていなかったりしたら、その詩歌は全然空なものである。


         (「『別離』を読む」・「創作」明治43年5月)


  1. 眼を閉じると、冷たる魂の死骸が見える。その小さな魂の亡骸を捨てに行く。私はその亡骸を捨てに行く。ああ明るい聖徒が団欒の席を遁れて暗い夜に走ったユダの悲しみ!私はそのユダの心持に同情する。


             (「卓上語」・「創作」明治43・3)


               


3 牧水と夕暮との相互批評(明治43年『創作』誌上)


【牧水】


 『収穫』を批評して、上巻の最新に詠まれた歌と、下巻の古い方の歌とでいずれが良いかということは僕らの周囲で度々話題に上る疑問である。僕は僕の嗜好からいえば何となく古い方のを好むけれど、矢張り近頃の作のほうが君にとって重んずべきものであるのであろう。輪郭の正しい君の特色はどうしても近頃の作物において多く見ることができる。(略)


重い、大きい、深いという様な所は割に少ない。そして君のー著者よ、僕は僕自身に宛ててこう感想を語ろう。そのほうが自由で心地がいい。


―つねに云っている現実生活の苦痛と醜悪とを歌うという主張はまだ十分には実際の作物に出ていない。作物はむしろ明るい、ここいよい響きと色とが溢れている。何処か小意地の悪い匂いはするが、まだ人をして君悪がせるに到らぬ、君のいう「芸園の私生児」という特色も際だって発見することが出来ない。若し君が深くかくあると自信し、かくありたいと希望しているのならば、今一歩突っ込む必要があるだろうと思う。


【夕暮】


 若山君の歌は輪郭を描いておらぬ、報告的ではない、説明的ではない。若山君の歌はすべての事象がまことによく主観に溶け込んでいる。生な所がいい。それで肌触りがソフトである。生々しい血のたれるような凄みはないが、ふっくりとすべての醜悪なものをつつんでいる。露出していない。自然を受け入れ、生活がもたらす、全ての感傷を受け入れる態度が、処女の如く柔順である。そして、最もソング、エレメントに富んでいる。一体、作品を通して、その作者の生活の状態が窺われなかったり、その人生観が暗示されていなかったりしたら、その詩歌は空なものである。(略)で、若山君の芸術は、どうかすると余りにも至醇に過ぐるの傾があった。どうかすると、殊更に醜を避けんとする癖があった。自分は思う。もう少し、突き放した態度でも少し醜い方面をも歌ってほしい。歌うべき対象を少し選択しすぎはしまいかと思われる。が、それはあまりに放漫な要求かもしれぬ。


 


4 富田砕花の評     (「収穫合評」・「創作」明治43・4)


牧水氏の歌は音楽的である、韻律的である、氏の歌は最もサウンドをもっている。しかるに『収穫』の著者はすなわち夕暮氏の歌は絵画的乃至彫刻的である。この絵画、彫刻たるや、ぱっとした明るいそれではなく、暗く重々しいそれである。前者は歌は朗々それを吟ずるを得べし、後者にあっては読者をして黙然と頭を垂れて沈思させずんばおかぬ、前者は音楽であるから、その音符をさえ修めたならば、技の巧拙は暫くおき、何人もそのキイを押すことができる。近時、牧水氏を模するもの多き、この辺りの理由によるのではあるまいか。後者は絵画乃至彫刻であるから、その一個作品それ以前にたとえ模するものがあっても、その作品の有する、独自の気分なり、空気なりは如何ともなしえぬのである。やがては夕暮氏の歌風が歌壇を独歩たる所以であろう。



7 斎藤茂吉 評    明治44年 (アララギ


〇わが敵か味方わからぬ人多きその中にゐてものおもひする


 何か或るものに触れようとして而して言い方が足りないと言った趣の歌である。たとい実生活上の経験であるにせよ、斯く冗漫にして乾燥仕切った歌調では実相があらわれない。第一第二第三句等にタ行カ行の音が多く、堅く強きに比して、段々へなへなとなつて一首は終わっている。我等の感情の最高頂に達したるとき、それを弾力ある強き言葉の調べを以て表すのが、短歌本来の形式の特徴としたならば、この歌の如き斑なる蕪雑なる不安定なる冗漫なる調べにどうして短歌本来の形式特徴が存在するであろうか。


この作者は世相をらくに剖析し、それをわざと蕪雑なる表現法を以て三十一字に組み立て、而して世相に触れたと得意がって居る様に見え、また不器用な表現法などということを唱えて居る様であるが、まだまだ不徹底である。


 
前田夕暮氏、よく多作が出来ると感心している。ただ駄作が砂の様に転がっている場合が多い。


 


うすあかく嵐をつつむ夕空の大きさ我をおびやかすかな


幅広き赤き光が煉瓦塀より反射してあり川船のうへ


 


こういう調子でいけば兎も角もよい。これからは真実の力のある声でなければもう駄目だ。近代人がったり深刻がったり進行的に歌作の間だけ疲労したり神経過敏がったりして居る様な暢気な歌では生命のある筈がない。(略)


 


あてもなき原稿を書く横顔をおぼつかなげに妻のみてある


 


これが現代に有名な生活歌というのであろう。生活という以上は生きて居なければならぬ。生きている歌を詠んで貰いたい。生きているということと不器用や蕪雑やは同一でないことを味わわねばならぬ。又、氏の歌は蕪雑であるが、その感に特別にぶった所があるのが益々作をして力なくする。


大正元年  第二歌集『陰影』について


氏は牧水氏のようにしんみりした歌は作らないし、不器用であって、時には砂の様な歌を連発するが、一種鋭い而して深みのある、底光りする歌を詠む、予はかつては随分思い切って氏の作を罵倒したこともあるが、一冊の歌集(『陰影』)を通読すると優れた作がなかなか多く、前の批評に対して甚だ忸怩たるの感があるのは事実である。


 

前田氏の「陰影」について  (大正元年十月七日)


 


予は短歌の形式に重きを置く論者で、そうして短歌本来の形式特質は詠嘆であると論ずるものである。ここに『詠嘆』と云うのは広い意味で言っているのであって、かの本居宣長や香川景樹等のいう意味と合致することもあり、したがって、今雑誌などで論ずるごく狭い意味の『詠嘆』という文字とは少しばかり違うのである。ところで、夕暮氏は狭い意味の詠嘆はあまりしない。その特色を予は理解し得るようにおもうのは、氏は予のいう広い意味の『詠嘆』を実行しているからである。しかし、それにもかかわらずなお「陰影」の歌に飽き足らず感ずるのは、調べに弾力性の乏しき点である。それは、名詞止めの結句、連体言(特に下二段活用)止めの結句の場合などに多く見いだすことができる。


氏の歌を貫く線は一般に太い。一般の感じはぱぱっと明るく無く、何となく暗い。同じ神経の歌でも感覚的な歌でも、絹糸のような神経ではない。雪よ林檎の香のごとく降れといったような感覚ではない。所謂、純抒情歌の場合でも、柔らかな息吹の歌ではない。何となく重々しい。そうして乾いている。(略)


 

9 ジャーナリズムからの攻撃


 


  1. 満都悪少年の横行」(東京朝日新聞 明治43年4月5日)
       いったい内務省の検閲係はなにをしておるのかわからぬじゃないか。(略)以上の8首は作者の仲間にてどんな意味に解するか知らぬが、普通人は見れば姦通歌ではないか。このほか全編六百首ことごとく色情狂の歌だ。言語道断の破倫の歌めいたものばかりだ。決して決して女子どもに見せては相成らぬものだ。
     
  2. 現代人の疲労  狂者と変質者の文芸、頭と陰部許りの人間」
               (東京朝日新聞 明治43年8月5日)
     
    元来自然主義派の小説と云うのは、その名の示す通り極めて自然であるべきはずだ。自然であるべく高派の荒唐無稽なる小説に対しておこった一種の反抗運動だ。しかし現代の疲労した作家は、なかなかそんな自然に満足するような健全な人間じゃねえ、そこで卑猥という要素を入れてこれを引きたたすようにせねばならぬようになったのだ。
     
  3. 石川啄木「女郎買の歌」   (東京朝日新聞 明治43年 8月6日)
      次の時代というものについての科学的、組織的考察の自由を奪われている日本の社会においてはこういう自滅的、頽唐的な不健全なる傾向が日一日若い人たちの心を侵食しつつあるということを指摘したまでである。
  4. 「堕落せる短歌」(『中央新聞』明治43年10月6日)
    何が堕落したと云っても近来の短歌界の堕落ほど甚だしいものはない、殊に『創作』という雑誌を中心としている同類の自称歌人の作者ほど劣悪淫猥なものはない。


「創作」の内部批判


  1. 山田白水


デカダンの皮をかぶった、そうしたものに賛成することはできない。すべて遊戯的で真摯な気が欠けておりはせぬだろうか、