眠らない島

短歌とあそぶ

森垣岳 第一歌集  『遺伝子の舟』


遺伝子の舟と呼ばれし肉体を今日も日暮れて湯船に浸す   
 
 
森垣岳の歌を読み、不思議な感覚を味わった。歌集に収められている多くの職場詠、そして父親との軋轢、あたらしい家族との交流、それらはたしかに境涯詠であるのに、境涯詠につきものの湿っぽさがまるでない。その湿っぽさとはおそらく感情の湿りから生まれるのだろうが、森垣の歌にはそれがないのである。森垣は、意識的か、無意識かは明確に言えぬが、湿った情感、あるいは歌を歌らしくする抒情を徹底的に排除している。また、重層的な意味をかぶせた言葉も避け、表現はきわめて平易である。
こういう表現方法から生じる効果として言えるのは自分の境涯を詠んでいながら、まるで他人事のように見せてしまうということだ。それがさらに乾いた浮遊感を醸し出し、この歌集の特色を作り上げている。
 
では何故こういう表現が可能なのだろうと考えたときに、おそらく理系の思考が背景にあるといえるかもしれない。しかし、それだけでもない気がする。巻頭に挙げた歌は歌集のタイトルになっている。「遺伝子の舟」とはもちろん自分自身であるわけだが、それを「呼ばれし」と突き放した視線で見ている。自分自身の内面世界から一旦外部に出て、もういちどそれを「肉体」として認識する。この操作をすることで、自意識が連れてくる湿った情感を切り離している。ただ、下句では「今日も日暮れて」とやや生活感情が混在してくるが全体としては硬質な造りの歌になっている。
ここでわかるのは、森垣が自我からできるだけ遠いところから、現実世界を認識しようとしていることだ。それは「無我」の立場をとる方法といえるかもしれない。「私」がいないということではなく、あえて自己の存在の内実を消す、あるいは軽くすることで現実の外側から見るという可能性を手にしようとしている。そうすることで現実を異化し、思いがけない存在の質感をつかみ出しているように思える。
 
 
電源の落ちたるような顔をして抗生剤を花に吸わせる  
目の黒き犬が瞬きするたびに世界は夜に向かいゆくらし  
おがくずの中よりにゅうと現れてシャコエビの見る明るき世界   
 
 
一首目は、自画像であろうが、比喩がよく利いている。「電源が落ちたるような顔をして」という比喩は秀逸であるが、それ以上にこの作者の世界への姿勢をよく捉えている。それはほどよい脱力である。二首目は、すこしシュールなスケッチである。犬が瞬きすることと世界が夜になることに因果関係があるかのように詠んでいる。それは無意味であるからこそ、犬と夜が実体あるもののように浮かびあがり、どこか自由でユーモラスでもある。三首目もやはり、自意識を脱力させて、シャコエビの視線になりきって遊んでいる。
 
けんけんぱ 道に書かれし輪を飛んで けんぱ けんぱで家に帰りぬ  
里芋の青き葉のうえ水滴のレンズの中を妻が横切る    
三人の妻を娶りし父親を鋏でよきちょき切り取ってゆく   
 
 
集中には家族の歌が多くおさめられていて、作者像がくっきりと浮かび上がる。一首目は、新婚の家に帰る弾むようなこころがリズミカルな修辞で詠まれて印象的だ。二首目は、妻を詠む歌としてとても美しい。三首目は、父との関係から生じる屈託をシンプルな表現でみごとに描写している。とても上手い作者である。
それにしても、と思うことがある。どうしてこのように軽やかに歌えるのだろう。それは、この作者が、自分を取り巻く現実をまるで映画をみるように見ているということかもしれない。映画だから、どんなに深刻なことであれ、面倒なことであれ、本気には受け取らないでいられる姿勢を留保しているのではないか。
そこには、こころを自由にしたいという願望が見えてくる。そんな作者の根源にはおそらく深い悲しみの泉があるのだろう。そう考えるのは、うがちすぎだろうか。
 
 
離れ住む本当の母唯一の我の母なる海上の島