眠らない島

短歌とあそぶ

吉川宏志 第七歌集 『鳥の見しもの』



雨ののち冬星ひとつ見えており何の星座の断片かあれは   
うちがわを向きて燃えいる火とおもう ろうそくの火は闇に立ちおり  
磔刑の縦長の絵を覆いたる硝子に顔はしろく映りぬ
錆ついた窓から見える風景だ どうしたらいいどうしたら雨
 
巻頭の連作をそのまま引いた。ここに歌集の主題が言い切られているように思う。混沌とした世界への不安、そして内面化しようとする緊張感や葛藤。歌集を読んで、同時代を、身を切りながら表現しようとする迫力に圧倒された。
 
「行為」をするのは人間だけだといわれる。なぜならそこには「決断」が伴うからだ。そのとき厳しく孤立して露出してくるのが主体性の問題だ。現代短歌において今「私性」ということが度々論じられ、危機が取りざたされるのは、自らの主体性を支えきることが出来なくなっているからであろう。しかし、この歌集を読む限り、そんな懐疑は微塵も感じられない。ここに突出しているのは、時代や世界とどう切り結びつつ、確固とした主体性を打ち立てながら生存してゆけるのか、という実存的な問いであり、存在のジレンマである。ここには、作者と作品のなかの主体との距離はほとんど考える余地はない。それほど切実な言葉があふれている。
 
何もできず、なにもできねば坐りたり黒き舗道にてのひらを置き    
 
これは反原発のデモに参加したときの歌であろう。無力感のなかで、行為を選び取る孤独さが「黒き舗道」という表現から読み取れる。デモに参加し、すぐに何が変わると信じている訳ではない。しかし、何かせねばならないという焦燥感がひりひりと伝わってくる一首だ。歌集全体にこうした強い使命感を持つ「私」が噴き出している。
 
叫べども言葉刺さらず夕闇の四条通りを歩みゆきたり        
若者は抵抗しないということば我もいくたびも言われし言葉   
 
 原発問題だけでなく、作者は積極的に政治的な課題に真っ向から降り組もうとする。その過程では、現実面に誠実であろうとすれば一首目のような無力感との闘いが必然的に現れるはずである。それでも作者を駆り立るのは二首目のような、青春の負い目にちかい原体験があるのかもしれない。
 
権力はまざまざと( むご)くなりゆくを日なたの雀でしかない我は 
  
社会との関係のなかにある「私」は社会を単に対象化するのではなく、「私」を社会のシステムと鋭く対峙させ、「行為」をとおして内面化してゆく。そして、それを表現に転化するとき、同時に「生き方」という問題が発生し、社会を遇する態度の表明を当然、読む者も負わされる。ここにはまぎれもないひとりの作者が短歌作品を媒体としてメッセージ性のある生き方をさらすことで、あるいはまたその葛藤を詠むことで不断に読者をも葛藤のなかに取り込もうとする強い力を感じる。この背景には、先の戦争で短歌がさらした「無力な文芸」への苦い反省があり、それを繰り返してはならぬという意志があるようにも思う。ここに、「短歌」界を牽引していこうとする強い責任感をみるようである。
 
では、何がこの作者をこのように政治的なコミットへ追いたててゆくのであろうか。後書きに西行にふれてこう述べている。

人間の時間は有限であるが、世界は無限に広がっている。どんなに見ようとしても見尽くすことはできない。しかし焦燥感にかわれつつ、西行は野山を歩き回り、桜を月を見ようとした。生きる限り、未知のものに触れようとする思いが、詩歌をつくる根源にあるのではないか。

西行は世を捨てることで、有限な時間を越えようとした。平安末期の混乱した現実世界のなかで主体性をもって生きようとした西行の精神は歴史の中でも屹立しており、この作者も深い共感を寄せている。むろん西行は月や花だけを見たわけではないだろう。
 
死出の山越えゆく兵を西行は見き どこにでも現るる山    
 
 西行は、兵士である身分を振り棄てて、野に走った。西行は出家をし、都を離れることで、より自由にこの世界の全体像を見ようとしたのであろう。美も醜も、生きてある限り見尽くしたい。そんな渇望がこの作者のなかにも溢れているように思う。強い憧れが、あるいは浪漫性がこの作者の眼をこのうえなく美しいものに導いていく。そして、それにもっともふさわしい言葉を与える技が冴えるとき、私たちもまた、未知であった美に遭遇することをゆるされるのだ。この作者の多様な歌の数々に魅了される歌集である。
 
やわらかな仏のころも波打ちてそこには風が彫られていたり