『灯船』2号
『灯船』第2号を読んだ。まず、藤野早苗の時評「詠まれたもの、読んだもの」に注目した。藤野はラカンの文章を引きながら短歌の口語化に警鐘を鳴らす。
実は「わかる」ということはコミュニケーションの可能性を閉じることに危険を孕んでいると言っているのだ。口語化傾向を強めたことで、短歌は日常性・親近感・身体感覚・軽やかさを手にした。しかし、その現実にべったりと貼り付いた水平思考は、文語が有していた垂直に上昇する力を削いでしまい、結果、作品を痩せさせてしまったのではないか。
なるほど、そういう見方もできるかもしれない。文語ならではの韻律の緊張感は口語には持ち得ないし、その格調の高さが実現されてこそ、普遍性への肉薄も可能になるのだろう。ただ、現代のような混迷した状況で、普遍性をもつ内容を文語定型に盛り込むことは至難の業であるような気がする。しかも垂直思考となるとますます厳しい壁があるように思う。もちろんそうした言葉に出会いたいという渇望はある。
しかし、まずは具体からでもいいのではないだろうか。「現実べったり」になる作品は口語短歌のせいばかりではなし、さらにいえば、「水平思考」には水平ゆえの豊かな日常世界が広がっているように思えるのだ。そう、感じたさせたのは、とりもなおさず、この『灯船』2号に掲載されている日常の沃野ともいえるような作品群そのものである。『灯船』はコスモスに所属する同人誌と認識している。まだ全ての作品に目を通した訳ではないが、読んだかぎりの印象でいえば、日常の多様さ、柔軟な感応、そしてやわらかで自在な言葉運びがどの連作からも伝わってくる。「コスモス」の良質なかがやきを放っている。
私は、様々な作品のなかで、垂直に言挙げするストレートな表現よりも、あまり意味を追いかけない言葉の方がより作者の気息を生き生きと伝えているように思えた。また、そのさりげなさに予期しない深さを獲得しているようにも思えるのだが、どうだろうか。
印象に残った歌を引いてみよう。
大野英子
鴉鳴く朝なりしかど鬱うつと隠りてをれば鴉去るこゑ
風間博夫
文庫本閉ぢて下車すると見えたるが男は眼( まなこ)を閉ぢてしまひぬ
才野洋
釣銭の一円玉の一枚に光るものあり春立ちにけり
斉藤梢
午前午後病院はしごの一日を小さなバスの旅と思へり
斉藤倫子
受験する子らの心に吹雪く日の歩行のやうな気持ちのあらん
鈴木竹志
定位置を得るはむつかし青鷺はきのふ小川の右岸にありし
月下桜
吸い込まれ四隅にすう( 、、)、と寄っていくエレバーターのなかの人々
中村敬子
電線の入らぬ富士を撮ることの難しさ聞く冬晴れの町
桑原正紀
スマホいぢる若者のなかの本を読むひとりの少女、泉のごとし