眠らない島

短歌とあそぶ

川端柳花 『おとうと』

  
 先日、知人から大阪文学学校の機関誌『樹林』六月号をいただいた。そこに掲載されている川端柳花『おとうと』を読み、長くその印象が消えることがないので、少し感想をまとめておこうと思う。
 
知覚は世界との媒体と言われるが、本当はそうではなくて世界そのものであるのかも知れない。この小説の主人公は、突発性難聴により右耳の聴覚を失っている。その身体的な欠落感は、主人公に世界との決定的な断絶感をもたらす。その孤独な内面世界を身体感覚をとおした言葉で鮮やかに伝えている。
 
右耳を澄ますと、キーンという金属音が立てる冷ややかな音が耳の内側で鳴っている。耳鳴りは決して右耳の外に漏れることはない。右耳の中で生まれ、小さな空間をまるで宇宙を飛来する無数の流れ星のように途切れることなく続いている。
 
聴力を失ったあとも続く耳鳴り。それは「外に漏れることはない」音であり、「宇宙を飛来する無数の流れ星のよう」と形容されるとき、その非在の音によって読者は現実世界からすこしずれた異次元の世界に引き込まれる。小説世界では、失われた聴覚と、十才で溺死した弟の存在とが重複して語りだされることになる。
 
  他人に聞こえる音が右耳には聞こえない。その代わり、他人に聞こえない音を右耳は聞いている。死んだ弟と右耳の音は私以外の誰にも気づかれずひっそりと、いつも私に寄り添っている。
 
入念に組み込まれた表のプロットがあり、一枚の絵との出会いが時間を進めることになる。物語は申し分のないうつくしいファンタジーに展開し、主人公の生きる事へのしずかなそしてひたむきな祈りが籠められる。それにしても、それを絵空事のように感じさせないのは、やはり失われたにしろ知覚ということの圧倒的な存在の描写であろう。知覚は個別的なものであるし、他人にうかがい知れることのない「内側」だけに存在する「小さな空間」である。人はそこから外に踏み出したり、また戻ってきたりして辛うじて生きているのだろう。そういう意味では感情も同じなのかもしれない。弟の死に続いて、両親を亡くす不幸に襲われた主人公は自分の感情も失ってしまう。
 
沈んだ島のように水底でひっそりと横たわるもの、それが私の心だ。
 
と主人公に独白させるとき、この作者は静かな眼で絶望ということを見据えているようだ。ここには喪失することの意味を長い時間を掛けて考え続けてきた緊張感がはりつめている。その思惟の力がこの小説に静謐な言葉を与え、透徹した文体をささえている気がする。
 
主人公には真珠の選別という職業が与えられている。物語後半で素手で真珠に触れるシーンがある。
指が真珠に突き当たり、押し分けながら奥へ進んでいくと、腕が真珠の中に埋もれてひんやりした。私は肘の高さまで真珠の中に腕をうずめて、しばらく冷たさを味わってから腕を引き揚げた。皮膚が真珠色になったような気がした。
 
なんとも美しい場面だ。ここには喪失された世界からの再生への夢が託されている。小説とはこうした丹念なディテールの積み重ねによって初めて輝きを与えられるものなのだろう。読み終わったあとも、いつもまでも、胸から痛みのようなものが去らなかった。ほんとうの哀しみにふれた驚きと昂ぶりの波がひかなかった。
 
最後に蛇足になるが、この小説を読みながら常に頭に浮かんで離れなかった歌を引く。喪失への哀切な想いはこの小説に通じる気がしてしかたがないのである。
 
白玉か何ぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを
                  『伊勢物語 第六段』