眠らない島

短歌とあそぶ

春野りりん 第一歌集 『ここからが空』

 
ふくびくうを花野としつつ朝の気は身のうちふかくふかくめぐりぬ  
 
春野りりん第一歌集『ここからが空』は、からだの全ての筋が解きほぐされて浮かび上がるような心地良さに満ちている。自己の存在を、自意識の枠から解き放ち自然や地球さらには宇宙まで包含してしまうような遠心的な感受がある。意識そのものが世界であり、この世界にあることということを無条件に肯定する。そこにはどこまでも無垢で、満ち足りた世界がひろがっている。
 
巻頭に挙げた歌は、特に印象的だ。副鼻腔という器官が平仮名書きされることで、身体から離脱し、人のからだと外界とを結びつけるあるいは一体化する不可思議な空間のように変容する。朝の大気は副鼻腔に吸い込まれることで、そこには清浄な秋の「花野」があらわれ、この作者のからだのなかに外界がふかく取りこまれてゆく。その感覚はどこか官能的でもある。自然との共感覚を自在に働かせて作者は自己以外の何とでも交感する。それは至福というべきだろう。
 
ゆるぎなく欅として在る欅なり励まされつつ曇天をゆく      
この星の芯より湧きてたんぽぽのひとつひとつが空の受け皿   
ふゆぞらの底に土鳩とひくく在りこのしづけさを分かちあひつつ 
 
歌集からランダムに引用した。一首目、欅は樹の中でももっとも美しい形を持っている。自然の造形への素直な感動が躍動感をもって詠われている。自己という息苦しい存在は後ろに下がり、それ自体で完全なものとして世界の中心に立っている欅にこころを添わせようとする。二首目、これもやはり、植物への賛歌。地面に近く咲くたんぽぽを「この星の芯より涌き」とするスケールの大きな把握に驚かされる。下の句では、更に反転してその小さなたんぽぽが広大な空を支えているかのような倒錯感がある。こういう認識を生みだす森羅万象への深い共感が歌に豊穣さを加えている。三首目は植物から土鳩という動物との季節の共感がさらりとした筆致で描かれている。植物や動物ひいてはこの宇宙全体と共鳴しあっている歌の数々はどこか宮沢賢治の詩や童話に通じるものを感じる。
 
この作者はあまり自我を主張することには関心がなさそうだ。自分を覗きこむよりもいつも外界の空気と触れ合おうとする。自分はこの宇宙のなかのほんのかけらであり、そして全てなのかもしれない。そこには、現代の歌が陥りがちな閉塞感や、孤立感からは遠い。自然の中の存在と溶け合うことで、種をこえたゆたかな生命の巡りのなかで自由に魂を遊ばせている。
 
ソマリアの水汲み女のさびしさに眩暈のあたまを搬ぶひざかり    
梅壺女御の額のすがしさや白竜胆を塗り箸に添う      
 
 作者の想像力は、見巡りの自然から空間や時間を越えてさらに遠くへ飛んでゆく。一首目は、内戦の続くソマリア。夏の日射しの暑さのなかに置かれたとき作者は、瞬間に「ソマリアの水汲み女」と一体化している。そしてこの地上に生きることの厳しさを「さびしさ」として感じ取る想像力の強さに感動する。二首目は、千年前に帰り平安王朝の後宮の一室へと想像は飛んで行く。梅坪の女御と白竜胆そして塗り箸といったこまやかな具象がひかりに包まれるように美しい。ここには人間の細やかな営みへの敬虔な思いが息づいている。
 
方舟に乗せてもらへぬ幼ならの悲鳴のやうな朝焼けを浴ぶ      
にんげんより賢き樹々を仰ぎみる除染かなはぬ山の緘黙     
 
 さて、歌集後半になると、東北の震災を詠んだ歌が散見する。ここまでは、世界との自然との共感覚が幸福感をもって詠まれてきたが、その世界は一旦亀裂をはらまざるを得ない。しかし、作者はさらに現実から眼を逸らさない。破壊のすさまじさを凝視することで、作者の想像力は失われた多くの命を呼び起こしてゆく。命のひとつひとつを喚起しながら紡がれる歌は、かなしい鎮魂の響きをかもしだす。そして、二首目のように人間の愚かさを、無言の自然のまえに棒立ちにさせている。
 
この作者を駆り立てているのは、やはり生命への限りない信頼感であろう。その全ての命をそして自然を等価とする感覚は、しずかな祈りの言葉となってそっと差し出されている。
 
青草をのぼりつめたる天道虫ゆくりなく割れここからが空