眠らない島

短歌とあそぶ

佐藤弓生  第四歌集  『モーブ色のあめふる』


 はじめての駅なつかしい夏の午後きいたことのない賛美歌に似て 
 
 
佐藤弓生さんの歌集をなんども開いてしまう。今回の『モーブ色のあめふる』は第四歌集ということで、これで佐藤さんの歌集を四冊いつでも手にとって読むことができるようになった。佐藤さんの歌は、いや詩といったほうがふさわしい気がするほど、文体が多彩である。その多彩さはとりもなおさず、世界の見せ方の多彩さでもある。歌を読むのが楽しいと感じられるのは、がんじがらめの日常の世界から意識を遊ばせ、ひととき言葉の世界で浮遊することを許してくれるからだ。佐藤さんの歌は詠んでいて世界がどんどん更新されていく高揚感がある。その歌はモノと「私」との距離を自在に伸縮させる、しなやかでかつ強靱な精神の筋肉の働きを佐藤さんの歌集からは感じることができる。
 
第一歌集『世界が海におおわれるまで』第二歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』までは、主体の視点がとりわけ天上的て、どちらかというと抽象化された表象としての世界が展開されてきたように思う。それはそれで、自意識から解放されきって宇宙から地球を眺めているように魅力的だった。
 
ところが、『薄い街』から、今回の『モーブ色のあめふる』では、主体はもうすこし地上に近いところに降りてきたように思う。それは、近代短歌的に「私」という日常的な視点から見えてくる風景、あるいは体験をとおして世界を記述する方法とは全く違う。そうではなくて、日常性に属する「私」をクリアして重力からやや自由な「私」を設定することで生活領域から自在に移動し、地上世界の豊かさを多彩に記述し言葉を繰り出してくる。飛躍する視点や言葉の弾力の背後には、この世界へのかぎりなき愛惜という作者のかわらないモチーフがあるように思う。
 
ではなぜ視点の位置が移動したのか、どんな部分が更新されたのか歌集から読み取れる範囲で探ってみたい。
 
  月は死の栓だったのだ抜かれたらもういくらでも歌がうたえる    
 
歌集の後半におかれた「月百首」から引いた。この連作は百首すべてに「月」を読み込む華麗な力作である。ここに引いた歌はその中でとくに優れた歌ではないが、それだけにとても素直にモチーフが提示されているように思う。神話では常識であり、あらためていうほどではないが、月は死の象徴である。その「栓が抜かれた」からいくらでも歌が歌えるという。たしかに、この歌集では「死」という言葉そのものも多く使われている。作者の視線は「死」のイメージをさまざまな断片からすくい上げてきている。
 
  感触は足が忘れるだろうけどごめんなさいごめんなさいみみず    
 小さきてのひらひらいてはひらいてはさくら波間よりつかみかかりきたりぬ   
 犬はすぐいなくなるからスコップや皿や写真でかざられた小屋    
 
一首目、ミミズを踏みつけたときの感触は足が忘れるというが、そのことで、いつまでも踏みつけられたミミズの存在がなまなましく残ってしまう。小さな生き物への悲しみの共感が大胆な口語を使うことで、リアルなまま読者に手渡される。二首目は、津波で流されたこどもへの哀傷歌だろう。さくらが「小さきてのひら」につかみかかるという把握が残酷でもあり、またそれを表現するのにふさわしい粘りのある文体が現れている。三首目は犬。「いなくなる」というのは死んでしまうと解釈していいだろう。飼われる犬や猫は人間よりもずっと早く死を迎える。その喪失をスコップ・皿・写真という具体物を提示することにとどめている。こういうふうに歌い上げないことでかえって純粋な抒情を引き出している。
 
ここにあげた三首とも死をテーマとしている。今回の歌集では、この「死」という局面と正面から向き合おうとしている姿勢が際立っている。地上の世界にはさけることのできない死があふれている。そして私たちは限りある時間のなかで出会い、そして別れつつ生きている。生死は世の習い。そしてその宿命をひとたび受け入れると、恩寵のように世界はその豊かさを垣間見せてくれる。
 
  人はすぐいなくなるから 話してよ 見たことのない海のはなしを    
 
 いつか死ぬからこそこの世界が途方もなくいとおしい。といっても死を調和的に肯定する姿勢ではない。むしろ、悲しいものは悲しいとする地上的な位置から歌は始まってゆく。そうやって死を射程にいれることで、以前の歌にまして奥行きが深まったように感じる。
 
  どんな死も仕方なくない 枯れながらアフリカゆりの叢立つむこう   
 
 ここでは、死も生も等価であるといった認識からは遠い。あくまでもこの世にとどまることで、美しく悲しい世界を見ていたいという願いが歌にあふれている。
 
  そして三月 うすあかりしてうぐいすのまだ尻切れの、だけど歌です