眠らない島

短歌とあそぶ

田中濯  第二歌集 『氷』

 
ハンカチが昨日と同じままだった 結句のちから午前には足らず   
 
田中濯 第二歌集『氷』を読んだ。何度も読み返した。頭の芯にこたえるものがあって、読み返さずにはいられなかった。おそらく、そうさせるものはこの歌集の「悲しみ」なのだろう。巻頭に引いた一首を読んでみよう。ハンカチを取り替えずに出て来てしまったことに気づいたときのなんともいえない情けない気分。一日を働くまえに手持ちのハンカチが汚れてしまっている。生きることは、たかがハンカチ一枚で充分かなしくもなる。日々の現実に向き合う力を「結句の力」とする喩も冴えている。ここに見えるのは、使用済みのハンカチから失意のようなものを感じとってそれを見逃さない繊細さである。この歌には日々の隙間を通り過ぎてゆく淡いかなしみを見つめる静かな眼があるように思う。
 
研究が五年残らぬ時代なり緑茶を淹れる間(ま)にも古びて    
 
作者は、科学者として大学で研究生活を続けている。その現場から詠み出される歌にも孤独な影が透けている。「緑茶」という具体が生活時間を感じさせ、競争に晒される苛酷な研究の世界のなかで萎えていく気持ちをものがなしく伝えている。
 
この歌のように、作者の立ち位置は一貫して現実に接近したところに置きながら、リアリズムが発揮する力のもつ熱量が足りない。現実の中で生きている「私」の像はくっきりと見えている。しかし、その詠み方は自分のことなのにまるで人ごとのように距離を置いているようにも思える。それは文体にも現れている。目を引くような修辞は控えられ、言葉は削ぎ落とされている。
 
読まぬまま放りし「塔」がつやつやと光を放つ薄暮になれば  
ドーナツに糖のかがやき 並びたるひとに密かな汗にじみけん  
学生はかわいいものなりほろ酔いで音楽のことなど聞いてくる    
 
結社誌は毎月送られてくるが、日々の雑事のなかでは異物である。「つやつやと光りを放つ」表紙は、歌から遠くにいることの後ろめたさの表れでもあろう。二首目、この歌は、作者にしてはかなり修辞意識が高いように思われる。焼き菓子に振りかかっている砂糖の粒のかがやきから、隠された肌に滲んでいる人の汗を連想している。ここには日々を耐えながら生きている人間の営みへの透徹した視線が感じられる。結句の過去推量の助動詞「けん」の一語で緊密感のある韻律を構成している。三首目は好きな歌。研究者でありながら、研究室に閉じ籠もらない。周囲の学生への暖かい思いが素朴な表現でうたわれている。こんな歌を読んでも、その優しさがどこか悲しい。他者の思いと響きあわずにはいられない柔らかな心が歌を一首一首つむいでいる。
 
 ささやかな悲しみをも引き寄せてからだで受け止めてしまう作者が、盛岡に職を得て、震災と遭遇したことにはどこか運命に近いものを感じてしまう。歌集のⅡ部は震災後の歌で構成されている。
 
米がない水がない電気がない人の命が流れていった       
青森のりんごは来たる青森のりんごが来たるなによりはやく    
 
一首目は第Ⅱ部冒頭の歌。事実だけを並べて、ぶっきらぼうな口調。大きすぎる悲しみのまえでは余計な言葉は不要である。二首目には「安息日」という詞書きが添えられている。絶望のなかに届く紅いりんごはひとすじの光だろう。やわらかなリフレインに、助詞だけを入れ替えてこまやかな感情の高まりが伝わってくる。悲しみの中で小さな希望をつかもうとする一首と思える。
 
それにしても、生粋の東北人でない作者が震災やそれに続く原発事故を詠うことは苦しかったにちがいない。それゆえ悲しみは体に深く沈殿してゆく。それをどう言葉にするのか。
 
「失われた世代」のままでいたかったフクシマ祀る墓守われら    
逃げられる愚かな母と逃げられない愚かな母の棲みたるこの世    
おおおおうと朝焼けの部屋にわれの声死者の声すこし訛りある声 
イーグルスが優勝したんはええんやんなあ? だがさほど「東北」は仲良くはない 
 
これらの歌が震災という現実の深部に届いているのかどうかはわからない。しかし、震災後に大きく変わってしまった「何か」に触れようとしていることは確かだ。一首目は、原発事故によって背負わされたものを自分に突きつけているし、二首目は、放射能汚染の問題をとおして「母」であることの悲しみを透視している。三首目には、死者の声を共有しようとするときの悲痛さがあふれている。ただ、その悲しみを詠えば詠うほど、言葉は自分の実感とは離れていく。やはり震災は作者にとっては他者なのである。四首目の歌には関西弁を入れることで、齟齬感をリアルに演出している。このように詠わずにいられないところが作者の誠実さだとしたら、身の置き所ということではずいぶんつらいことだなあと思わずにはいられない。
 
歌集には病の歌もあり、引きつけられながら読んでしまう。そんな歌群のなかに次の一首が差し込まれていてはっとする。
 
いいからもう消えたいんだと思うとき岩手山裾野をさまよいし春   
 
「もう消えたいんだと思うとき」とは何に追い詰められているのか。あるいは具体的な何かではなくて、この世界にいることの痛みや後ろめたさ、あるいは羞じらいのような思いが、この作者の原点にあるのではないか。そこはおそらく『氷』のように凍てついた世界なのかもしれない。それがこの作者と現実との間に醒めた距離をもたらしてもいるし、そのようにしか生きられないことへの悲しみにも繋がっているような気がして痛ましく読んだ。
 
歌集をとおしてほとんど直喩を用いていないが、いくつか見つけることができた。やはり修辞は人の心を解き放つことができるのだとも思える美しい一首だった。
 
レシートを返す箱にはレシートがあふれおり白き花束のごと