眠らない島

短歌とあそぶ

『鱧と水仙』43号 鱧

 
『鱧と水仙』第43号を読んだ。
 
巻頭三十首の近藤かすみ「タルトを崩す」は心地の良い一連であった。三十首のなかに、自身が生きてきた家族とのながい時間を詠み込んでいる。内容からすればかなり重い情感を誘い出すはずなのに、近藤の力を抜いた文体が家族を詠むことにつきまとう生っぽさを払拭している。三十首の連作には緩急があり、地の歌をうまく配置して、読者の気持ちを離さない。中でも注目した作品を引く。
 
 花折断層(はなをれ)に因む災禍を待つこころ先割れスプンにタルトを崩す
 桜見る人の耳みるひとたびを開きて閉づることなき耳を
 
  一首目、「花折断層」という固有名詞がもっている美しさと不穏さを軸にして、日常のなかに漂う倦怠感をしっとりと伝えている。二首目、は特に注目した作品。「見る」ことから「耳」へ関心を移動させることで、人間のもつ感覚の属性を切り取っている。見ることは目を閉じることで遮断することができるが、声や音は否応なく耳に入ってくる。そのようにわれわれは無条件に世界に曝さらされてしまっている存在であることに改めて気づかされる。鋭い認識をたたえた歌としてしみじみと読んだ。
 
香川ヒサ「輪郭」は力強い連作だった。歌の世界が広くて、意識が自由に時空を越えてゆく。見巡りの風景から発想が豊かにそして深みをもって世界に繋がっていく。
 
橅の木の上にかかれる半月を化石と思へば冷たく白し
紛争の続く中東の街の名はみな聖書にて知りし街の名
 
  一首目、連作の巻頭に置かれている。月から化石に展開させることで、現実的な空間に悠久の時間を一瞬にして取り込んでしまう。そういう時間軸から人間存在を振り返った瞬間の絶対的な孤独感を平易な表現で包んでいる。二首目はこの作者らしい、人類史的な視点に立った歌。人類のはてしない戦闘の歴史を長いスパンに立って思考するときの痛みを抑制された表現でよく伝えている。
 
 小谷博泰の連作「みちのく」は、この作者の独壇場であろう。非現実と現実の世界を自由に行き交う遊び心が文句なしに楽しい。
 
    きんぽうげこの世をおのが花びらのなかに捧げるまでにかかやく
 
 少々泥臭い非現実的な物語風の連作の中に、一筋の光を当てて、すくっと静謐さを湛えた一首が差し込まれている。こういった羞じらいの結晶のような無垢な感性がこの作者の遊び心を支えているようで静かな感銘を受けた。
 
その他、注目した作品を挙げてみる。
 
手袋の中の手のやうわたくしは水無月三日ゆふべみづいろ   小谷陽子
 
  季節の巡りのなかに自分の存在を溶け込ませてゆくような自在な感覚。「手袋の中の手のやう」の喩が新鮮。自分自身がこの世の時間に生きていることを愛惜するようで印象的だ。
 
届きさうで届かぬところを飛ぶほたる見せびらかすといふも至福で  
                         高橋ひろ
鳴かれても鳩の気持ちはわからない自由律とは恐ろしいもの
 
 ぶっきらぼうな詠いぶりの中に現象の本質にまっすぐに切り込んで行くような爽快感がある。二首とも展開が鮮やかで、手垢にまみれていないこの作者の知性のきらめきを感じさせる。
 
  サルスベリふわふわと咲きわれよりも肉付きの良くわが影がゆく                             
                           棚木恒寿
 
  一連は妻の出産とその後に続く育児の苦労を率直に詠っており、身につまされて読んだ。そのなかに置かれたこの一首に目を引かれた。煩雑な日常のなかで、ふと気持ちが逸れて行くような一瞬を捉えている。「ふわふわと」というオノマトペサルスベリの花の特色をよく捉えていてうまいなあと感心してしまった。そのあとの展開も無理なくひろがりがあっていい歌と思う。
 
  あけがたの風のない空 汚染水タンクが同じ形に並ぶ    中津昌子
 
  連作のタイトル「風のない空」はこの一首から取られている。原発から漏れ出す汚染水の処理工程は途方もない。立ち並ぶタンクはまるで墓標のようだ。その映像が幾度となくテレビで流れると、遠く離れて暮らしていても日常の時間のなかに混在するような不穏な感覚を覚える。この映像から我々はもうどこへも行けないのではないかという恐怖さえ感じてしまう。そういう閉塞感をこの一首はよく伝えている。そう感じながらも、他の作品にも気持ちが惹かれた。
 
蝶番はるかに鳴らし降(お)りてくる夏か緑の穂がゆれている
 
  中津らしいイメージが鮮やかで詩情溢れる作品。隅々まで感覚が行き届いていて感情が流露し、なめらかな韻律を構成している。新しい季節への期待感に満ちているこの歌が好きだ。
 
 鴉きて雀らの来る雨上がり立入禁止のロープの向かう     中野昭子
 
  ドライな感覚の嘱目詠がこの作者らしい。動物と人が空間を分け合い生きているたたずまいがさらりとしたタッチで描かれている。
 
 
  今回の特集の『「小高賢論」歌集を読む』も興味深く読んだ。なかでも坪内稔典の文章にいろいろ考えさせられるものがあった。坪内氏は小高賢の『老いの歌―新しく生きる時間へ』(岩波新書)を引用しながら、自身の率直な考えを述べている。
坪内さんの主張の趣旨は明晰だ。少し長くなるが引用する。
 
 「老い」において依然として「私」にこだわるのは。若さを基準にした 思考ではないか。
 …中略…「私」から自由になってもよい。実は、私が小高さんに言いた くて、うまく言えなかったことは「私」を脱することであった。…「私」 はとても大事だが「私」だけがことさらに大事なわけではない。河馬だっ て草花だって銀河だって大事なはず。…そのような人間でない存在に移行 するというか、他者と一体化するチャンスがもしかしたら老いにはあるの かも。
 
この件を読んで、「私」を詠えという脅迫から一瞬にして自由になり、自我というしがらみから解き放たれたようなすがすがしさを感じた。何を表現するかは各人の自由だけれど、「私」を詠むことを最優先とする風潮はいかがなものかとも思う。私は短歌によって日常そのものよりも、日常の裂け目から届く非日常の世界へ向けてこころを解き放って欲しいと思う。あるいは世界の豊かさをつかみ取って見せてくれる表現に出会いたいと思う。自我の自明性によりかかり、自己をとりまく現実を再現する方向は歌を衰弱させるのではなかろうか。
 
「夕暮れは好きなひととき」窓近くクロサイが来て突っ立っている                                
                        坪内稔典