眠らない島

短歌とあそぶ

田丸まひる  第二歌集 『硝子のボレット』

 
田丸まひるさんは未來短歌会に入会してたった一年で未來賞を掠ってしまった。田丸さんの登場は、『未來』にとって衝撃的な出来事だったように思う。同じ加藤治郎選歌欄に籍を置いていたこともあり、掲載される歌は毎月読んできた。定型に収まりきれない言葉のもつエネルギーにはいつも圧倒されてきた。
 
ところで、このたび上梓されたのは田丸さんにとっては第二歌集ということである。第一歌集から十年あまりにわたる期間の歌を収録されている。この歌集を通読してやはり目に付くのは、多くの性愛の歌である。そして今回、歌集としてその全体像を読み、今まで思っていたよりも骨太な田丸まひるという歌人と改めて出会うことができた。
 
   裏側に入れてほしくてあたらしく覚えてしまう脚の曲げ方   
   人型を濡らして歩くわたしから永遠に鳴る鍵束の音  
 
この二首は、未來賞を受賞した巻頭の一連から引いた。一首目は、ほぼ性愛の歌として読んでも間違いはないだろう。そして二首目は、自画像にちかい歌。この二首を並べてみると、一首目は性愛の歌であるが、自分に意識が向いているせいかどこか孤独な匂いがする。そして二首目、「人型」と指示されているのは、自分の身体を指示しているのだろう。身体を意識から離れたものとして認識することで、全体性を欠落させ不全感を抱えて漂っているように思える。鍵束は世界との隔絶感を象徴するツールとしても解釈できそうだ。
 
田丸まひるにとって性愛とは何かということ考えると、そう単純ではない。通り一遍ではない知的な操作が組み込まれているように思える。田丸は意識的に身体と精神を区別する。その背景には現実の関係性においての深層の断絶感があるのではないかとも感じる。それはあるときは哀切に他者を希求するが、またあるときは他者との関係を断ち切る酷薄さとしても現れる。その両義的な関係性が性愛という行為をとおして立ち現れてくる。
 
   透きとおる部屋、透きとおるわたしたち眠れる眠れないどちらかが    
   冷凍庫にもたれるときの安堵ほどでいいから今日も脱がさずにして  
 
 一首目、性愛という行為を通して身体は輪郭を失い、ひとつに溶け合うような至福感がある。眠っても眠れなくても、どちらでも幸福な時間であることには変わらない。それに対して二首目、ここでは一首目のような陶酔感は剥がれ落ちている。性愛から得られるものは「冷凍庫にもたれるほどの安堵」でしかなく。着衣のままの性交にはかえって「ひとり」であることを際立たせてしまう冷めた快楽しか期待されていない。
 
    何度でもわたしの羽根をむしりとる街に出せない婚姻届  
    瘡蓋もはがし合いたいすれ違うことのできない裸を抱いて 
 
様々な方向に乱反射しながら繰り返される性愛歌の基底にはここに引いた二つのベースがあるように思う。性愛のペアは「こいびと」と呼ばれ、一首目の歌のように、結婚という制度からはじき出されている。そのことによって傷を負わずにはいられない。そして、二首目、現実社会から疎外された関係性は、システムに守られることの無いゆえに、かえってひりひりとする緊張感のある関係性を構築している。「すれ違うことのできない」というフレーズから、作者が限りなく求める関係の純粋さが伝わってくる。
 
   身体の見ている夢が精神の見ている夢にたどりつきそう  
 
おそらく、この作者が希求するのはこの作品のような身体と精神がひとつに溶け合い、なんの齟齬もないような幸福感かと思う。そして、それはこの歌集ではかなり初期の歌である次の作品において達成されていたように思える。
 
   桃色の炭酸水を頭からかぶって死んだような初恋   
 
「桃色の炭酸水」は初恋そのものの喩だろうか、さわやかな甘いずっぱい思い出。そこにこそ無垢な関係性があったはずだ。その幸福感は「死んだような」という比喩表現と並べられる。おそらく、至福感と死とは近いものがあるのだろう。自我意識から解き放たれるという共通性において。そして、この歌が回想の形をとっているように、初恋のもつ純粋な幸福感は既に喪失されている。
 また、この作品で使われている「死んだような」が比喩であることは見逃せない。それは実際の「死」ではないことを暗示している。
 
  夜ひとつ越えてもいつか死ぬくせに足は絡めたままにしといて 
 
 少女期から抜け出て、関係に性愛が介入することでプラトニックな世界は損なわれてくる。いくら濃く繋がったとしても身体はいつか死なねばならない。そういう認識が精神と身体とを否応なく離してしまう。そのせいかある種の絶望感が歌に漂い始める。
 
  身体の底のきらいな街に降る緑雨 濡れたい もっと濡れたい
 
「身体の底のきらいな街」とは魅力的なフレーズだ。だが、このフレーズの背景にはやはり「死にゆく身体」への感覚が影をさしているように思える。有限の時間の中で、死にゆく体しか与えられていない存在である私たち。だからこそ、下の句の切迫感のある希求の叫びを呼び起こすのではないだろうか。
 
  寒雷の夜に切る爪 からだから遠ざかるものすべてを悼む   
  生きていてよかったねって清潔な朝の呼吸を受け入れるしかない 
  避けがたく朝は来る この夜よりもみんな、すこし、しあわせになれ 
 
一首目、身体に潜む死を爪の欠片から鋭く感受している。二首目では、そういう不安を抱えながら日々をつないでいる息苦しさが「朝の呼吸」という表現で実感的に詠まれている。そして、三首目は、それでも、生きてゆくものたちへの共感と切ない祈りが流露していて胸を打たれる。美しい作品だ。
 
こうして、読みを進めてゆくとやはり、田丸まひるは強い歌人だなと改めて思う。自分をごまかさない。隠さない。骨太な言葉で世界を鷲づかみしようとする。甘い性愛歌にだまされそうになるが、田丸の精神は貪欲にそして、容赦なくこの世界のど真ん中を撃ち抜こうとしている。要注意の歌人である。
 
それでも
愛してるどんな明日でも生き残るために硝子の弾丸(ボレット)を撃つ