眠らない島

短歌とあそぶ

尾崎まゆみ  第六歌集 『奇麗な指』

 
  わたくしはやさしさに包まれてゐる細胞のひとつひとつの声に   
 
 この作者が「わたくし」と歌い出すとき、その一人称は強靱な強さと、広がりを持って立ち現れる。この「わたし」は現実性を捨象し、抽象化された精神性そのものであるように聞こえる。シンプルな言葉の連接が流れるような情感を流露している。それは世界との親和を希求する静かな祈りのように聞こえる。また韻律に注目すると、二句から三句にかけての句跨がり、そして下の句は完全な破調に加えて一音字余りになっている。ここには定型には収まらない自意識の拡張がある。「わたくし」は輪郭を失い、世界との境界を無化し、心地よく溶け出していきそうである。
 
  わたくしの許せることと許せないことの音叉と耳鳴りの差違 
 
しかし、現実の世界には雑音が満ちあふれている。「わたくし」はその上澄みをすくい上げ、濁った音を「耳鳴り」として退ける。この違和感は生きがたさのような生々しいものではなく、世界そのものの不完全性の謂いであるのだろう。「わたくし」の求めているものはあくまでも「音叉」のように均整のとれた世界の美しさ。そうでないものは、「わたくし」には「許せない」。こうした「わたくし」と世界とはおそらく相似形であろう。日常性を越えた天上的な静謐さ。それは「差違」というような硬質な言葉によって表現され、世界観を構成している。
 
  その雨は空を流るる暗闇の意図を地上に引きおろしつつ   
  水平線ひかりひとすぢ降りたちて空を殺しにゆけといふなる 
 
 この二首は対として読める。一首目では、天上は神聖なだけではなく「暗闇」という邪悪な毒も含んでいる世界として立ち現れる。二首目はそれに対して、「ひかり」がおかれている。「空を殺しにゆけ」とは、邪悪も含めて天上的なものをも支配ししようとする内なる声であるようにも思う。そこに全き世界を見据えている拡大した自己像がみえる。
 
  藪椿水の流れのなかほどにふと笑まふなりわたくしを見て    
 
また、この作品に見られるように甘美さも歌集前半の特色を作っている。流れに浮かぶ鮮やかな藪椿を「わたくし」は上から見下ろしている。その椿の花が「わたくし」を見て「笑まふ」という擬人化には陶酔感が溢れている。ここにも天上的な愉楽に満ちた世界が広がっている。
 
  波打つ空に鰯雲あり群れてゐる自意識のしろい月の断片    
 
 空に広がる鰯雲、群れているのは雲であるはずだが、それが「自意識」にも懸かっている。拡散していく自意識の姿がひるまのしろい月の断片となって虚空に漂っている。作者の自意識は閉ざされているものではなく、空に広がる鰯雲のように、また昼間の月のように空にあわく溶け込んでいる。「わたくし」は世界のどこにでも自在に偏在する。歌集前半には、作者のさまざまな世界へのアプローチがあり、ゆらめくような世界のゆたかさを楽しませてくれる。
 
              *     
 
  奇麗な指はリアルではない傷口をビニール傘のやうにくるまれ   
  バンド・エイドを剥ぎとる時に痛みあり神戸にはかつて震災があつた 
 
 歌集後半のⅣからは2011年以降の作品にかわる。ここに並べた二首は前半と後半から引用してみた。歌風の変化は歴然としている。一首目、「綺麗な指はリアルではない」とはリアルでない指こそ奇麗だとも読める。リアルなものよりも甘美なものに向くのが歌集前半の世界であろう。二首目は、後半からの引用。表現は具体的であり、修辞はそぎ落とされている。そして、バンドエイドを剥ぎ取る痛みから呼び起こされるのは阪神淡路大震災の記憶である。歌集前半にみられなかった現実への接近があらわれる。
 こうして、前半と後半を読み比べると歌集のタイトルにもなっている「奇麗な指」には現実と非現実という二つの方向性が託されているようにも思える。
 
 さて、歌集中の文章に作者はこう記している。
 
「… 三月以降、言葉をより注意深く扱うようになった。言葉と現実世界は、微妙にリンクしているのではないかと感じられることが、身近に起こってしまったからだ。『日記のように』 」
 
 こうした心境は、歌に鮮明に反映されている。
 
  やはらかな言葉ばかりを甘皮に眠らせた指の触る楠   
  あづさゆみ春の鼓動のじいいんと角ぐむ葦の尖端に来て   
 
 一首目、「やはらかな言葉ばかり」を選んでいたかつての歌を「指」で比喩している。「指」とは作者にとっては世界との媒体を担った身体のパーツであり、かつ「歌」そのものでもあるようだ。「ばかり」という語の選択に自らの歌への苦い認識がある。いまや、その歌はざらついて荒々しい「楠」の幹に触れようとしている。また、二首目、「あづさゆみ」と枕詞を使って「春」をやわらかく呼び起こしながら、春の到来をまるで痛みのように描いている。「じいいん」というオノマトペが浮き上がっていない。かつては虚空に溶け出していった意識にかわり、鋭く働く感覚があり言葉がものに近づいている。
 
  さうして街の闇の深さに混じらむと黒土のなかに眠るセシウム    
  
 東日本大震災での放射能汚染への言及である。「闇」はこの作者が好んで使う言葉であるが、ここではそれほど過剰な意味を乗せていない。「さうして」で、文脈の外から流れ込んでくる時間が不穏な未来を呼び起こす。それを「闇」とすることにそれほど飛躍はない。下の句もかなり即物的な描写である。「言葉を注意深く使う」とは意味を肥大させすぎないことであろう。また、歌集後半では「父の死」という人生に於いて最も重く現実的な事件と遭遇している。
 
 
  ホスピスの窓辺に蛇のやうな雲ベッドの父とわたくしを見て
  もういない父の記憶をとり落とし鋼の橋がキーンと痛い    
 
 一首目の歌を、前半に引いた椿の歌と比べてみよう。まったく視線の向きが逆になっている。こちらは「蛇のような雲」に「私」は見下ろされている。「蛇」もまたこの作者が好んで使う語彙であるがこの場合も不吉さを象徴する以外はそれほど込み入った意味はないようだ。それよりも作者の身体は死を間近にした父とともに地上に縛り付けられている。「わたくし」はもう現実から遊離して拡散することはない。瀕死の父を前にして逃れようのない哀しみの時間を確実に生きている。二首目は、「鋼の橋」という無機的なものに哀しみを託し、「キーン」という金属音にカタカナ表記することでリアルな心情が伝わる。
 
 天上から地上に降りてきた自意識は、世界の物音を「許せるもの」と「許せない」ものに分けることはしない。低い姿勢で豊かなノイズを聞き分けて、それを受けとめる。ここでの自己は現実世界での自己と等身大である。現実に向き合ったところから始まる世界から歌がはじまる。それは慎まししくて、とても美しい言葉である。
 
  ラジオから聞こえる声のあたたかくこの世この時この場所にゐる