眠らない島

短歌とあそぶ

山下泉第二歌集  『海の額と夜の頬』

 
山下泉の歌を読んでいると、緊密に構築された回廊に迷い込んだような不思議な感覚を覚える。描かれているのは紛れもなく作者の日常空間だが、独自の感性と磨かれた知性によって俗性を捨象され、再構成された世界となって立ち現れる。そこには、父や母、弟、子供まで顔をだすが通俗性や事実についた生っぽさはない。日常空間を言葉によって位相を組み替えることで思惟的な空間へと変貌させ、光沢のあるポエジーを編み出しているようだ。
 
細密なひかりを浴びているのだろう子供の声のなかの地下鉄
 
「声」や音は、本来、無定形であるゆえに時間的な象徴性をもつように処理されがちであるが、ここでは「声のなかの地下鉄」とすることで、「子供の声」がまるで奥ゆきのある空間そのものように提示され、その中を地下鉄が走っているように詠われている。不思議な倒錯感の中で、地下鉄はあかるい子供の声に包まれてまぶしいような幸福感さえ放っている。上の句の「細密なひかり」という表現もその印象に奉仕している。ひかりを細密と修辞することで、それは硬質で細分化された「モノ」に変化する。「モノ」にすり替えることでひかりもまた空間的な存在としてこの歌の世界を構成する一要素となっている。このように、山下泉は、世界を構造物のように言葉によって作り替えながら、存在のかがやきを取り出してくるようだ。
 
風やみて優しき洞となりし夜、草生(くさふ)にふたつ眼をおけり
浅いかげ、と眼をあげれば暗緑の枇杷葉のありし空間ゆらぐ
どこにいても目は空中をさまよえり柳にあわき花ある時も
 
空間を認識しようとするとき主体的に働くのは視覚である。一首目、「夜」という時間的な概念を「優しき洞」と空間的におきかえることで、夜の湿りを持った空気感が流れ始める。その潤いに充ちた世界を支えているのが「草生」に置かれた「ふたつ眼」であるというのだ。二首目は、視線によって捉えられたひかりと影。影を「浅い」と空間的に把握するときにおこる位相の転換にしずかな詩情が立ち上がる。その光と影への感応から「空間のゆらぎ」を感じる主体のなかの一瞬の屈折が表出されている。三首目、「目は空中をさまよ」うという。私たちの上に広がる空は連続する無限の空間である。その空虚さに吸い寄せられるとき、目は漂うしかないのである。ここで結句に添えられている靡いて止まない「柳」の姿が効果的である。こういう主体にとっては、身体もまた宇宙を内在した「容器」であり、身体感覚が主体を包んでいる世界を知覚する。
 
カーディガン脱げば早春あたらしき時空の前のトルソーとして
ひとつの神殿として身体は運ばれてゆく街路を地下を
 
ここに引いた二首には自分自身の存在のありようを、有形のモノとして捉えられている。無限に広がる世界の前で、はっきりとした輪郭をもつ固有の存在として屹立している主体意識がうかがわれる。早春の風を感じるのは、あやふやな「こころ」などではなくて、くっきりとした造形を与えられた「トルソー」であり、街を行くときの主体は、「神殿」と喩えられることで、俗なる世界とは明確に区別された内的な思惟空間とかわる。身体はさらに「神殿」という聖なる器を与えられ、世界を移動している。こういう感覚は、この作者の硬質な資質をよく表しているように思える。自分をひとつの区切られた空間ととらえる位相と同じ線上に、主体は多様な建造物をとらえてゆく。それはいわゆる非連続の空間であり、その区切られたモノのひとつひとつが主体にとっては世界を形作る美しいパーツなのである。私たちはその空間を作者とともに楽しめばよい。
 
墓地というひややかなところ新しき地勢図として秋に記せり
土師連八嶋(はじむらじやしま)の祠に出会いたり常緑昏く風棲むところ
蓮の葉に顔をうずめて泣いている唐招提寺の庭に陽が入る
 
一首目、墓地は死につながる「ひややかなところ」という場所として名を与えられ、世界を記述する「地勢図」に記される。そこに新しい意味をもって空間が嵌められるのである。二首目、「土師連八嶋の祠」と出会うことで、主体の意識は、はるか古代の風が棲む空間と繋がっていく。三首目「唐招提寺」という建造物は無機的な属性から離れて、「蓮の葉に顔をうずめて泣」くというように身体感覚をもって捉えられている。
 
ところで、三首目の歌にはどこか、建造物と主体との境界が溶け出しているような印象がある。ここにきて、主体の空間認識は、世界と二元的に対峙するのでなく、自分もまた無限空間のなかの一部となって世界を感応しているようだ。非連続なさまざまな事物は命をあたえられ、あたたかく呼吸しているようにしっとりと存在している。
 
サンダルをはいて出ずれば夜は優し夜の大きな頬に入りゆく
そこにいるのは月ね、と言って拳から指をいっぽんいっぽん起こす
 
一首目、「夜の大きな頬」というフレーズが印象的である。夜が身体そのもののように詠われるとき、そこに入ってゆく主体と世界との境界は無化され、全的な開放感が流れ出している。「サンダル」という履物が素足の知覚を思わせる。二首目は、たぐいなく美しい歌である。月をつつむ拳とは宇宙全体であり、また温かな身体そのものでもある。恥ずかしそうに隠されている月は、ほのかに光を放つ命そのもののように切なく震えているかのようだ。ここには、空間やモノに出会いそれに体感を与えることで、深い情感をくみ上げている。
山下泉の身体が、青々とした山河や街という生きた空間を自由に移動する。そのとき、ほっとするような優しい時間が川のように流れ始める。言葉がからだのように運ばれている秀歌である。
 
近鉄線にきのう渡りし木津川をきょう京阪によぎるたのしみ