眠らない島

短歌とあそぶ

久野はすみ 第一歌集『シネマ・ルナティック』

久野はすみは私の「未来」の歌友であり、もっとも信頼するする歌人の一人でもある。2001年に「未来」に入会後、翌年には早々と未来賞を獲得、また2003年には未来評論賞をも手にした一筋縄ではいかない強者である。その久野が待望の歌集を出した。厳選された二五三首が、瀟洒なフランス装の本になったことを心から嬉しく思う。
 
珈琲になりますという声のしてわれもなりたし柊の木に
 
「珈琲になります」という発語は、おそらく食事の最後をしらせるサービスの言葉であろう。その言葉から飛躍して、今度は自身が「柊の木」になりたいと思いたつ。日常の場面から、想念の世界へ飛んでいく作者の一瞬の才気が利いている。また。「柊の木」という言葉の選択もセンスがよい。「柊」から冬を連想させて、どことなく緊張感のゆるんだような宙吊り感を醸し出してのびやかな世界にひきこんでゆく。久野はすみ第一歌集「シネマ・ルナティック」の世界は、巧みな修辞によって日常の世界から一瞬ずれる感覚が新鮮で、読むものを楽しませてくれる。
 
後書きで作者は、二十代の数年間は演出家を目指して舞台裏を駆け回る日々だったと記している。そういう経歴からか、この作者の歌の作り方には演劇的なセンスが随所に活かされているように思える。多彩なキャラクターを登場させることで、歌集のなかに生き生きとした空間が生まれている。言葉は内向せずに、関係のなかで反応する他者や、自己を自在に描いている。そこにこの歌集の風通しのよさが生まれているように思う。
 
 「なんじゃくもの」と言われて返す「五尺です」二寸の釘を打ち込みながら
 春を待たず行方しれずになりしとぞ喫茶きまぐれ髭のマスター
 ペットロスいまだ癒えざるともだちと悲しむための映画を選りぬ 
 苦労など身に付かなくていいでしょうバックにしまうあぶらとり紙 
 
一首目はおそらく、舞台裏で苦労していた作者の姿であろう。二首目、三首目には自分を取り巻く周囲の人々がそれぞれのキャラクターをもって登場している。作者の他者を見る目はあたたかい。それは三首目にあるような自分自身への視線にも反映されているようだ。外界と積極的にかかわり、現実の手触りを貪欲に歌にとりいれていく。それは遠心的なエネルギーを感じさせる歌の世界である。
 
 約束を断るときの声をして近づいてくるあなたは所詮   
 足早に過ぎるつもりがまたしても手相見の女に呼び止められる  
  孤児(みなしご)にやさしい言葉をかけているつもりの人とお茶をいただく   
   自転車はざんざんぶりの雨のなか駆け抜けてゆく 子供は生きろ     
 
1首目は巻頭の「シネマ・ルナティック」のなかの一首。この一連のなかには失われて行く青春への哀惜の思いが流れている。自分から人が去っていくとき、人は一つの時代が終わったことに気づかされる。この一連に含まれている「『こころから応援してる』コットンの繊維みたいな手紙が届く」なども巧みな比喩を用いながら、青春の別離を暗示させていて読ませられる歌だ。二首目の「手相見の女」が眼目。実際にこんな場面があったのか、他者との不可思議な共通する感覚が登場人物の動きによって演出されている。場面設定が巧みなのである。これも演劇とどこかつながる空間構成の力かと思われる。三首目、孤児とみられているのは、自分であろう。この時、「孤児」のように寄る辺ない顔をしていたのか。ここでは相手を「つもりの人」と突き放す客観的な心理が働いている。結句の「お茶をいただく」という言葉の斡旋も主体のクールな心理を反映してこの場面をいかしている。現実の世界の様々な挫折や困難を、深刻ぶらずに軽いタッチで描いてゆく。そこには舞台にいる自分がどう見えるのかという外からの視線がうまく働いて、表現を抑制しているように思う。四首目には子供が登場する。おそらく自分の子供への思いが重なっているのだろうが、母親としての過剰な情感はそぎ落とされている。突き放すようないいかたで、かえって強い愛情を伝えている。こういう関係の描き方もこの作者の持ち味だろう。
 
  生涯に小さくともる灯のありて貴方と食みし浅蜊のスープ    
 
浅蜊のスープ」という軽い食材の選択が圧巻である。食を介在させて命へのいとおしみへつながる美しい相聞歌である。このように、生な感情は理性的に処理されてから他者に反映されたり、モノに置き換えられたりして詠われている。意味と喩のバランスのとりかたが巧みなのである。
 
 お終い、という声のして振り向けば黒い日傘が遠ざかりゆく  
 思いつくかぎりの嘘をつきましたキヨスクにガーゼハンカチさがす
 ゆうぐれのじゃんけんのごとく消えゆけり観覧車その役目を終えて  
 
喪失感と「黒い日傘」、「罪障感」を癒す「ガーゼハンカチ」、そして「ゆうぐれのじゃんけん」と消えゆく「観覧車」は子供時代への郷愁の念であろう。歌のつくりが構成的であり、そこがこの作者の歌に明晰な印象をあたえている。明晰さやこの作者の持ち味の軽快さは歌集にかかる重力を軽くしている。反面、こうした図式的な明晰さは歌のアキレス腱にもなりがちであるが、歌集後半になると、そういった理屈臭が巧く処理され、のびやかな韻律となって現れてくるようだ。
 
 眼も門のひとつであれば風の日は降る花びらをくぐらせており   
 ストーブを消せば灯油のにおいせり人恋しさはそのように来る  
 鳴き声のうるさき犬であったなあ庭にゆすらの赤き実たわわ    
 
これらの歌には内面性と世界とがひとすじの韻律になって溶け合っている。一首目には、視るという知覚を「門」という場所に置き換えることで位相がかわり空間的なひろがりを生んでいる。それは心の中に流れる花びらによって過ぎてゆく時間を思わせる。二首目もストーブを消した後の灯油の匂いという知覚から、人恋しさへと感情がゆき情感を深めている。三首目、「犬」を回顧するとき「鳴き声」が実感的に使われている。過ぎてしまった時間と現在の時間が「ゆすらの赤き実」の情景に交差していて、豊かな時間の奥行きを作り出している。読んでいて心地よい。歌集中には「母」との軋轢や葛藤を暗示する歌が散見する。しかし次の歌には、そういう関係を超えたあたたかい思いがゆったりとした文語調に溢れていて、これからの作者の向かう世界を示唆しているようにも思えた。
 
 
 母というかたちふうわり広ぐればただいちまいの布となりたる