眠らない島

短歌とあそぶ

加藤治郎『しんきろう』の文体

 
このたび、加藤治郎第八歌集『しんきろう』を読み直してみて、新鮮な衝撃を感じた。それは、どういうことか、整理のつかない思いでいたが、なんとなくやり過ごしてしまうのは惜しいので、拙いが言葉にしておきたいと思う。
 それは、一言でいうと、「文体」からの解放ということかもしれない。歌を作り始めてからつねづね、自分の文体を持てということを教え込まれてきた。自分の文体をもってこそ一人前というわけである。それは口語体であったり文語体であったりして、それぞれ、その作者にとっては必然でなければならなかった。
 ところが今回『しんきろう』を読み直してみて、一度は混乱に思えた文体の混在の様相が実に、リアルな現実そのものとして迫ってきた。たとえば、今、ランダムにページを開いて目に入った歌を引く。
 
母の腰は樹木のごとく曲がりけり(あめゆじゅとてちてけんじゃ)尊かりけり
 
顔からぴりり顔を剝して男はも もはやリストは内ポケットに
 
こんなことなんどでも起こるといいながらきみの手紙を折り曲げている     
 
古本の積まれて居たるあたりより黒みを帯びる街路なりけり    
 
豚の帽子をかぶっておいらはビル街を行くぜどこにも炉のない街を   
 
できるだけおおきな飴をくださいな日々寸寸(ずたずた)の俺であること   
 
一首目は、文語体でありながら、歌のなかに宮沢賢治の詩句をそのまま取り込んでいる。母親への敬愛がこういう不思議な文体を作り出したのだろうか。
 
二首目は加藤元来の語り口だが、腰に「はも」という古語をもってくることで、抑揚が生まれ、「顔」から「顔」を剝す「男」を読者に押し出してくる。いったい、自分の「顔」とはなんなのか、それは「顔」ではないところにしか存在しないのかもしれない。システムに翻弄されるしかない存在を切り取っている。
3首目は加藤独自のナイーブな口語体。悲しみを繊細で優しい言葉づかいで歌い上げている。
四首目は、人口に膾炙している斎藤茂吉の歌のパロディ化。下句には、作者が発見した都市の翳りが、しっとりとした文語に乗せられている。四首目は、八〇年代のライトバースの口調に、「震災後」の狂いだしそうなテンションの高さが空しく響ている。
五首目、言葉に負荷がなく、作者の声がストレートに伝わってくる。全体に、口語、文語の区別がなし崩しになっている。しかし、この放埓で無定形な文体(ここでは文体と呼ぶしかないので)こそが、現代社会のリアルにより近いのではないかとも思える。混乱した社会や自我のリアルを捉えることができるのは、口語、文語の区別の外側につねに生成している生な言葉そのものである。それは自由でるゆえに引き裂かれている。現実に生きているものの痛みがここに溢れていると言えば言い過ぎだろうか。