眠らない島

短歌とあそぶ

川本浩美 遺歌集  「起伏と遠景」

石材展示場無人のひるにして何も彫られざる石碑はそびゆ
 
 川本浩美という歌人については何も知らなかった。初めて読むのが、遺歌集ということもあってか、つい感傷的になってしまうのであるが、読み始めるとそういう甘い感傷の入り込む余地はなかった。抑制された文体によって捉えられた事物はしずかにその存在感を放っている。
 この歌にしても石材という硬質なオブジェだけが並ぶ緊張感のある空間設定が見事である。「何も彫らざる」石碑という把握のしかたにも独自の視点を感じる。石材は、何らかの用途を担っており、それが墓石となるなら、家の名や戒名が彫られることになるのであろう。そういう意味を担う以前にある、物そのものとしての石材の尊厳、あるいは清浄さを言葉の力で形象化している。「無人のひる」という場面設定も絶妙であるし、結句の「そびゆ」という語の選択もゆるぎがない。無駄なおしゃべりは一言もない。そして、添えていえばそういう石材を見出した主体の深い孤絶感のようなものを漂わせてもいる。見事に屹立した一首である。
 
もの言はぬ一日をしもかなしまず防疫協会のまへとほり過ぐ
 
送電線はるかにわたるくもりぞら人のおこなふことのさびしさ      
 
逆年順に構成している歌集を通して読んでみて、やはり晩年に近くなるほど、言葉に無駄がなく、光沢がでてきているように思う。一首目、一見、平易な言葉の流れのなかに、深い感情がとおっている。下句の「防疫協会のまへ」という場面の選び方がとりわけ印象的である。無数の場所があるなか、防疫協会という、どこか物悲しさを感じさせる場所を選び取る感覚は絶妙であると思う。「かなしまず」と言いとめた後に、「防疫協会のまへ」にきて、唐突にこの作者の哀しみの核心に触れてしまったような思いがする。
 二首目の歌にも同じ感想を抱く。こちらは上句に、広漠とした曇り空の下にはるかに伸びてゆく送電線がある。灰色の空の下、いくつもの山稜を越えて、だらりと垂れた電線を支える巨大な鉄塔がそびえている。なんとも無機的な寒々とした光景である。そういう気持ちには誰しもなったことはあるに違いないが、その感慨を簡潔なだけにふかい言葉で言い切っている。そこに、川本浩美という歌人の磨き抜かれた言葉の感性と、さまざまな人生経験からくみ上げてきた深い人生観を感じてしまうのは私だけであろうか。
 
灯の入りし寝台列車停まりをり今日といふ日はきのふのこずゑ      
 
 また、川本の作品に流れている時間への感覚に注目する。過ぎてゆく時間を物をとおして見つめている。この歌も、上句では簡潔に寝台列車を提示するのみであるが、この寝台列車というものの選択に時間への感覚が生きている。昨日から、今日へと夜を越えては走り続ける寝台列車。それがひととき、休まるように、灯をともして停車している。そして、下の句での「今日といふ日はきのうのこずゑ」という美しい比喩であらわされた発見が提示されることで、この歌にあふれるような詩情が生まれる。この品のよさは次のような歌にも見られる。
 
観覧車赤くおほきく見えしとき花指すごとく指はさしたり     
 
 言葉に余計な負荷がなくて、静かないい歌である。ほんの一瞬こころによぎった思いをすっと言葉に無理なく掬い上げていく技量もこの歌人の特色ではないか。後年に、大阪を去る時の「大阪は思つてゐたよりもうつくしく通天閣の灯るゆふぞら」の歌もそういう自然な吐息をつくような詠法でありながら、作者の大阪への哀惜の思いがあふれているようだ。大阪ミナミの街の情感がこころに残る歌になっている。
 個人的には、1995年の阪神大震災を詠まれた連作がとても懐かしく、新しい悲しみを呼び覚まされた。こうして、かの大災害を詠んだ歌を何度も読み返すことで、私たちが何を失ってきたのかを確認させられる。いや、失ったのではなくて、あのとき自分のなかで砕けてしまったまま葬られることのない記憶を静かに癒されているような気もする。川本氏が、震災の場面にどういうかかわり方をしたのかは知らなくても、真情の込められた歌に救われる。いい一連だった。
 
最後に、歌集掉尾の作品を引く。この作者の行き届いた言葉への感覚と丁寧な歌のつくり方がこの一冊をとても魅力的にしあげている。あまりに早い逝去を悼むばかりである。
 
ひととせに減らしたる靴捨つる日もまたすみやかな季節の真なか