眠らない島

短歌とあそぶ

ふたたび  『迷子のカピバラ』

 
『迷子のカピバラ』について、レポートを発表する機会があり、もう一度読み返すことができた。その際、この作品群の虚構性について少し考えを深めてみた。
虚構とひとことでいっても手法はさまざまである。この歌集についていえば、「境界のずらし」ということが言えそうだ。つまり、まったく異次元に飛ぶのではなくて、日常世界からほんの少しずらしていくことで、ポエジーを立ち上げていく。あるいは、動物とそうでないものとの区別、つまり世界の分節のありかたを少し変えてみる。
 
地下街に迷子になつたカピバラフルーツ牛乳おごつてやらう
 
「地下街」という「地上」(現実)とは区別された空間だが、ほんの少し地面の下側に降りただけ。しかし、そのずらし方は絶妙である。新しく生まれた非日常空間では「カピバラ」が「迷子」になるというファンタジックなストーリーが生まれてくる。そして、その異空間と日常性との媒体となるのが「フルーツ牛乳」というなんとも懐かしくも日常性あふれる飲み物なのである。このアイテムが非日常と日常とを無理なく橋渡しすることで、読者は自然にカピバラとの親和的関係を築くことになる。負荷なく、虚構を受け入れる雰囲気を醸し出しているわけだ。
 
「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」観覧車(談)
 
この歌については既に多くの評が書かれているので、蛇足であろうが、恐れずにいうと、この歌は、よく見かける観覧車の歌とは違う。一般的には、観覧車に主体に感情移入したり、観覧車がなにかの比喩であったりする。しかし、この歌は人物が主体である現実の世界を反転させて、観覧車そのものが主体となった世界が現出している。それはまるで鏡の向こう側にするりと滑り込んだような感覚であり、これもまた、一種の境界のずらしともいえる。その逆さになった世界では、余計な背景は消されて観覧車の言葉(ありえないけど)だけがきこえてくる。それは「生涯にいちどだけ」という取り返しのつかなさであり、「一回性」ということに付随する純粋さへの憧憬が響いているように思える。
 
このようなずらしやねじれは、この歌集の構成全体に及んでいる。動物とも恋人とも、同じ空間に生きているようで、作者の位置は少しずれたところに置かれ、直接に触れようとはしない。そこには純粋なもの、無垢なものへの限りない愛惜とそれを失うことへの切ない悲しみがあるのだろう。