眠らない島

短歌とあそぶ

來田康男第二歌集『法螺吹きの末裔』

來田康男の第二歌集『法螺吹きの末裔』が出版された。來田康男は1994年に「眩」に入会し、米口實に師事しており、私からすると兄弟子にあたる。来田は眩の中の異才であった。來田の歌の魅力はやはりそのストレートな表現力であろう。言葉の力に寄りかからずに、生な言葉で現実を鷲掴みする押しの強さ。そこには、徹底した「私」という存在へのこだわりがある。
 
いま我に向けられてゐるのは視線ではなくて刺されむばかりの憎悪
茹で栗も中を蝕みし虫共も消化してゆくゆゑにわれあり
鵜のことを嗤つちやいけない 部長らに手綱を曳かるる俺も同類
レジのミスで余分にもらひし釣銭を所長に見られてゐさうで返す
 
現実の世界の中での「私」とは何者であるのかを問い詰めてやまない。
來田は人との距離が、普通の人?より接近しているように思う。近いからこそ、周囲や社会への激しい憎悪や嫉妬、そして罵倒、嘲笑といった悪意がこれでもかというくらいに噴出してくる。それは一見卑俗なように見えるが、この猥雑さの蓄積のうえに身動きのならない日常があり、そのなかで生きるしかない抜き差しならぬ現実の姿が立ち上がってくる。來田はあえて、その騒音のなかに身を置くことで、生きることの実感をつかもうとしているかのようだ。
 
  〈普及所でやる気になつた〉と言はるるのが嫌で今年も笑顔をは見せず
   上司に似し悪役が斬らるるシーンだけ再生してはにんまり見てゐる
   辞めますと言ひだす衝動を止むるは我が辞めた後の皆の嘲笑
   挑発をしてくる奴らも骨となり消えゆく故に許せよ奴らを
 
思いが強いだけに、言葉が必要以上に、偽悪的になっている。歌集は体温が高い。來田はやわらかな感情をそのまま晒しつつ、しかも傷つくことを恐れない。クールに整った、若い世代の歌風にくらべて、お行儀が悪いのかもしれない。そこに來田の純粋さを見る思いがする。來田の歌は攻撃的な執拗さもあり、読む方を辟易させてしまうことも否めない。しかしその裏には人とのつながりを渇望してやまないせつない希求があるのだろう。
孤独な現代の組織や社会への不安や不信や焦燥感のなかで來田の巨体は疾走をつづける。その果てに見ようとするものはどんな形の救済であろうか。むきだしの魂の声で歌う稀有な歌人であると思う。
 
ある朝に起きると体表と体内がひつくり返つてゐたらどうしよう