眠らない島

短歌とあそぶ

真中朋久第四歌集「エフライムの岸」書評

 
真中朋久の第四歌集「エフライムの岸」が出版された。二〇〇六年から二〇〇九年までの五五二首が収められている。真中の骨太の作風は独特であり、前回の「重力」で完成された、うねるような力強い文体がどんな世界を切り開いてゆくのか楽しみであった。
 
自重ゆゑにややふくらみし腰のあたり直方体に裁りたる豆腐     
小さき林檎ほどに椿の実は太り陽に輝りてをり陰に輝るもあり        
 
一首目、豆腐の形状をおどろくほど緻密にデッサンしている。「腰のあたり」という言葉選びが繊細でありながら、全体の印象はドライで硬質である。二首目の歌も、歌の入り方は優しいが、下の句にいくと、微分的に椿の実の様子が描き分けられている。そのせいか、言葉はやや過剰に展開されている。油絵具を塗り重ねるような粘り強い文体によって、重みをはらんだ豆腐や、椿の樹の光沢ある姿がみごとに描き出されている。物の存在感とはこうしてつかみとられるものかと改めて思い知った。自然や静物を扱っても、たやすくは抒情にいかない。あくまでも物を凝視してその存在に迫真しようとするように言葉が紡ぎだされる。
 
ひかれひかれとみがく玻璃戸のむかうから手をあげてくる友と気づきぬ  
壕のなかに絶えしをとめらを語りつついつよりか酔ふごときそのこゑ   
純潔を守りしというふくだりより熱帯びてゆくことをあやしむ       
待ちあはせ時刻を違へたるならむこの二時間を大切に休む        
 
連作の構成も変化に富んでいて読ませる。事実をただ記述するのではなく、事実にまつわる人を介在させ、人の心理の暗部への違和感を吐露する。その息遣いのなかに現代社会の抱えている恐怖を感応している作者の姿が見え隠れし、共感が生まれてくる。現実のどこに陥穽が待ち受けているかわからないような不安感。この歌集のもっている批評性はあきらかであるが、作者の生活感情をとおして語られる言葉は地に足がついており、重心が下に据えられて読む側に力強く迫ってくる。
 
子が呪文のやうに唱へてらくあればくありくあればらくあり
ひらめきて子を叱るときはつかなれど官能のごときもののきざせる
 
子どもを詠んだ歌がところどころに入っているのも楽しい。歌集全体の重苦しさにすこし余白がうまれ、また、現実との多様な関係の中で思索が深まっているようで効果的である。この歌集のタイトルにつながる歌を引く。
 
シイボレト(つぎ)シイボレト(言つてみよ)シイボレト(ゆけ)シボレト(ゐたぞ)
 
典故については後書きに作者が記しているように、旧約聖書士師記」第一二章の逸話によるものである。改めてこの章段を読み返してみた。「すなわち之を引捕へてヨルダンの津に殺せり。その時にエフライム人のたふれし者四万二千人なりき」とある。思わず息を呑んでしまう。作者の耳には二千年以上の時空を超えてギレアデ人の尋問の声が生々しく響いている。それは現代の我々の発語と交差していく。こうした実感の上に立つ作者、真中が凝視している時間の深さこそがこの歌集に重層性を構築させているといえるだろう。
 
最後に、一首、美しい歌を引きたい。このような歌が歌集中にたくさんあることに喜びを感じたのも正直な感想である。
 
雨のあとの螺鈿のやうなみづたまりたましひに少し遅れて跳び越す