眠らない島

短歌とあそぶ

米口實 「惜命」

 
「呟」の主宰者であった米口が今年1月に急逝した。
歌集の原稿を預けたまま、ついに世に出るのを見ることはなかったことが惜しまれる。91歳であった。
 
米口実は大正10年に、兵庫県赤穂市で生まれている。その後、浪速高等学校に進み、北原白秋の主宰する「多磨」に入会し、歌作を本格的に始めている。このころ生涯の友人となる谷川健一と出会っている。、東京帝国大学に入学したものの、昭和18年の文系学徒出征のため、軍隊生活を余儀なくされ、健康も失うことになってしまう。
 
こうしてみると、米口の原点はやはり、北原白秋直伝の、浪漫性や韻律の美しさということになろう。米口自身もそれを自分の歌の美質として誇りに思っていた。しかし、一方で、そういう韻律性が、自分のモチーフとそぐわないことにもいらだちを隠さなかった。戦後から引きづり続けてきた、戦争の残虐、愚劣、そして戦後の不遇、歌人としての無念、社会への批判、これが米口のなかに澱のように溜まっていったが、表現する文体を持たなかった。
 
最後の歌集となった「惜命」は米口が晩年に求めた口語体を取り入れた新しい文体で展開されている。この文体の獲得により、初めて甘い浪漫性の軛から自由になっている。抑制された表現に、米口の抱いてきた鋭いモチーフが載せられている。
 
冒頭の「くさむらの死」から引く。
 
  何処にも逃げ場はないからこの石に座つたままで死を迎へよう
 
かの丘の虐殺などが生涯で持てたあざやかな色であつたか
 
起き抜けの門扉にひかる朝の霜まだどうかして明日も生きたい
 
一首目、単調に読み下すことで背後にある「死」への深い断念が立ち現れている。二首目、鬱屈した言い回しの中に戦争の無残な記憶が吐露されて印象的である。三首目、死を前にした生な感慨を単純化している。口語文体に重力をかけ、空虚さを漂わせた独自の世界を構築している。この一連で語られる戦争体験は実体験からずらされ、仮構されることでかえって「実相」に迫り、その無残さを見事に言語化することに成功している。
 
ところが、長年連れ添った妻に先立たれる。
亡き妻への大量の挽歌では再び文語体へと傾斜している。気力を喪失していた米口は、出口のない自己模倣に陥った感がある。
 
歌集の後半になると、再び歌に生気が戻ってくる。「惜命」全体の特徴はやはり、口語体を練り込んだ太い文語調である。米口にとって口語体とは単なる表現の手段ではなく、自らの内面性に深く関与してゆくためのものであった。
 
暗闇にうごく鳥たちは目をあけてただひたすらに飛んでゐたはず
 
 ここに幻視されている鳥は、否応なく迫り来る「死」を凝視する米口自身の孤独で透徹した眼差しを仮託されている。
 
死者としてコピイの街に生きてゆくなんだか足の浮く心地して
 
秋のコートを選ぶをみなはかたはらの死者なる我を見ることもなし
 
 死の三ヶ月まえに制作された一連。死者の視点から「この世」を映し出す仕立ては周到で、無機的なリアリティを醸し出している。置かれている境涯への冷徹な姿勢がなしえた世界であろう。「コピイ」「コート」などの語彙も手触りを与えている。現実の位相では逃れようのない死に恐怖し、狂わんばかりの自己がいる。そういう現実を異化することで、冷静に死と向き合い、生死をも越えようとする強靱な理性が作品をささえている。
 
雨後の岩が剥がれて谷に落つるやう間なくいたらむ私の死は
 
粘り強い修辞によって仮借なく自己の死を鷲掴みするような気迫がある。黒光りする力強い律が生動し、生命感さえ感じられる。死のわずか二週間前の作品。九十年の歳月の果て辿りついた、峻厳で格調の高い文体こそ米口が求めて止まない真の流麗体であった。
 
辞世
 
 名を成さず死ぬ歌人をあはれ見て辛夷の花は夜ごと散るべし