小谷博康「夢宿」
歌集のなかに夢が次々と現れ、きがつけば異次元に連れ去られる。
過去や未来、さみしい山村、あの世や異類の世界にまで足を運び、夢を旅をしているような不思議な感覚に誘われる。そこでは現実の窮屈な自意識から解き放たれ、原初にたちもどらせてくれる。
決して楽しいばかりの世界ではない。懐かしくも、恐ろしく、そして甘くてせつない。それは私たちが普段から魂の奥に抱いておきながら無意識の世界に封印している情感そのものなのかもしれない。
いくつか歌を引いてみる
なき人のうたが聞こえる休日に空はれながら綿雪の舞ふ
スイートピー花すでに落ち山々に霧吹いてをり勤めて長し
駅近き店に立ち寄り呑む酒か人生すでにたそがれてをり
ゆめうつつの我をゆすりし女あり気づけばわれは向うに目覚め
窓のそとに夜ふけてかねをたたきをりいつしか虫やら我やらしれず
黄昏の見知らぬ町でほろ酔い気分になってるうちに、いつのまにやら夢の世界に運ばれる。
そこには、どこかものがなしい風景が広がっている。
島がみえその向うにも島がみえいつもねむたい僕のこのごろ
ついてこいといふやうにして前を行く虎猫されどわれとはぐれて
ありしことなど何もないというやうな日が暮れゆきぬ何度も何度も
ふと何か踏みし瞬間われはわれの部屋にてテレビを見て笑ひゐし
アメリカかどこか知らねど夕暮れのとある街角でころされてをり
遠き日の夢にてあれど線路わきの安アパートに女と暮らす
平板な日常があり、さりとてそれほど苦痛でもなく日々は過ぎてゆく。そのなかに夢が入り込んでくる。
それは心地よいばかりでない。どこかの街角で殺される夢。
しかし、そういう死に方への夢想もひとつのロマンといえるのかもしれない。
そして、今は過ぎ去りし青春へのかぎなき愛惜。
歌集には夢ばかりではない。情景を美しく切り取った歌がある。
これもあるいは夢のなかの景なのか、もう境界は消えている。
誰か畔にじつと考えて立つてゐるあれは白さぎ雨にけぶりて
今年またわが存在のそとにして川のほとりにたちあふひ咲く
夢はいつかは覚める。この世の夢も。そのときにはどんな光景がみえるのだろう。
眠いよと椅子がいふなり一億年のちの地球に椅子ひとつある
想像力は、体から解き放たれ、時空を超えてはるか遠くへ届いてゆく。
体を喪失しても夢だけは残っている。
それは、孤独なひとつの椅子である。