眠らない島

短歌とあそぶ

明治43年3月の啄木 (現代歌人集会春季大会報告その1)

 
 
1 三月の短歌への波動
 
 
  明日を思ふ心の勇み生涯の落着きを思ふさびしさに消ゆ    3月14日 
   何時になり何歳にならば忘れえむ今日もおもひぬ故郷のこと  3月14日 
  心よく人を賞めて見たくなりにけり利己の心に倦める淋しさ  3月19日 
  非凡なる人の如くにふるまへる昨日の我を笑ふ悲しみ     3月19日 
   大いなる彼の身体を憎しと思ふその前に行きて物を言ふ時   3月19日
  今日もまた捨てどころなき心をば捨てむと家を出でにけるかな 3月23日
   鏡屋の前にいたりて驚きぬ見すぼらしげに歩むものかも    3月25日
 父母の老いし如くに我も老いむ老は疎ましそれを思へば    3月26日 
  宰相の馬車わが前を駆け去りぬ拾へる石を壕に投げ込む    3月27日 
 心よく我に働く仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ     3月28日 
 心地よげに欠伸してゐる人をみてつまらぬ思ひ止めにけるかな 3月28日 
  故郷の訛りなつかし停車場の人込みの中にそを聞きに行く   3月28日 
 
 
明治四十三年の3月から啄木に活発な短歌創作の波が訪れている。「明星」からの仲間であり自然主義に転じた若山牧水が「創作」を創刊したことは短歌へのきっかけとなったようにおもう。
 中旬から東京朝日新聞と東京毎日新聞に短歌の掲載を始めている。4月2日には「渋川氏が、先月朝日に出した私の歌を大層賞めてくれた。そしてできるだけ便宜をあたえるから、自己発展をやる手段を考えてくれといった」と日記にしるしている。渋川氏とは当時、東京朝日新聞の社会部部長であり、啄木のようなアカデニズムから外れた知識人に寛大であった。この渋川氏の言葉が「一握の砂」編集への意欲、ひいては亡くなるまで短歌創作を継続する意欲のきっかけになったように思う。
 
この時期の啄木の生活は比較的安定している。朝日新聞の校正の仕事も続き、家計を支える基盤ができあがっている。今年になってからは月に総計40円から45円位とれる勘定だ、米味噌の心配だけはしなくてその月は送れるのだからよほど楽にはなっているのだろう」(3/13宮崎宛)と手紙にしるしている。
12月に野辺地から父を迎え、やっと一家そろっての生活がやっと実現。4月一日には、浅草見物にも出掛ける余裕がみられる。しかし、啄木の精神は、そういう現実的な安定を手に入れれば、却って精神的な餓えに苦しみ、自由への希求が燃え上がる。
「平凡な低調な生活をしていると文学ということを忘れて暮らす日が三日に一日はある。しかし、忘れても捨てはしない。これから徐々にやるつもりだ。そして一度は僕の文学的革命心の高調に達する日が来るものと信じる」として、文学への意欲を語っている。
こういう機運の中で、短歌創作への衝動は始まったようだ。
 
 2 生活実体の回復
 
前年、明治42年12月に「食らふべき詩」を発表し、生活と文学との接近を図り、それまでの詩作品の空虚さを批判し自己の統一を図ろうとしてきた。
 
謂う心は、両足を地面にくっつけてゐて歌う詩といふ事である。実人生と何等の間隔なき心持ちを以て歌ふ詩といふ事である。…斯ういふ事は詩を規定の或る地位から引き下す事であるかもしれないが、私からいへば、我々の生活にあってもなくても何の地位もなかった詩を、必要な物の一つにする所以である。詩の存在理由を肯定する唯一の途である。
 
「我は詩人なり」といふ不必要な自覚が、如何に従来の詩を堕落せしめたか。「我は文学者なり」といふ不必要な自覚が如何に現在に於いて我々の必要から遠ざかしめつつあるか。即ち真の詩人とは、自己を改善し、自己の哲学を実行せんとするに政治家の如き勇気を有し、自己の生活を統一するに実業家の如き熱心を有し、さうして、常に科学者の如き明敏なる判断と野蛮人の如き率直なる態度を以て、自己の心に起こり来る時々刻々の変化を、飾らず偽らず、きわめて正直に記載し、報告するところの人でなければならぬ。
 
この性急な論理のなかで啄木がめざしたのは人間的な実体を失おうとしていた自己及び文壇周囲への批判であり、人間的な実体を回復するために「実行する」つまり「生活する」「生活の実体」を再建することであった。
 
現在の日本にはあたかも昨日の私のごとく、何らの深き反省もなしに日本国というものに対して反感をだいている人がいます。私は悲しまずにはいられません。遠い理想のみをもって生活を直視することの出来ない人は哀れな人です。  (1/9大島経男宛)
 
文学者、詩人といった特権意識を自己、他者ともに徹底的に批判する。文学者の生活の空虚さに気づき、社会を無責任に批判することを「卑怯」だとして、現実社会、国家と関係づけようとする。
「生活」とは啄木にとってひとつの実行であった。生の内実をそこに求めようとする。生活の意味を本質的に問い返している。自然主義は旧道徳を批判し、家庭生活を否定したが、啄木はそれではどうしたらいいのか、ということを考えずにはいわれない。北原白秋たちの集うスバル派の耽美的な風潮にも反発を感じている。「生活は罠だ」として家族を回避してきた自分を批判し、生活への責任を誠実に果たそうとする。2月には「性急な思想」で近代主義批判をし、自然主義からはなれていく。懸命な自己回復の思索を通してようやく啄木は生活を基軸におくことで思想的に自立できている。啄木にとっての生活詠は文学への最後の切り札であった。ここに切実に内面化された生活詠が生まれてくる基盤を獲得している。
  生活は充実感ももたらすが、反面、単調で平板な雑務と煩わしい人間関係の繰り返しでもある。元来浪漫的な性情をもっている啄木は、「生活」を手に入れた瞬間から「捨てどころなき心」をかかえながら、居場所をもとめてさまようしかなかった。啄木は自身の内面を鋭い批判精神をもって歌い始めている。