眠らない島

短歌とあそぶ

兵庫県歌人集会会報43号「特集100年後の啄木」

6月の歌人集会のパネリストとして出席することになりました。
今回の会報に短い文を掲載していただきました。
 
 
         「啄木100年」  解体から創造へ
 
明治四十一年六月二三日深夜から、二五日深夜にかけての二日間に啄木は実に二五〇首余りの歌をノートに書きつけている。このときの日記に、「頭がすっかり歌になつている。何を見ても何を聞いても皆歌だ」とある。そして「たとへるものなく心地がすがすがしい」とも記している。ここには開放感のような心持ちが感じられる。この時、啄木にいったい何が起こったのだろうか。この大量の歌稿のなかから何首か歌を抜きだしてみる。
東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹とたわむる
うす曇る鏡の中の青ざめし若き男を罵りてゐぬ
人棲まずなれる館の門の呼鈴を日に三度づつ推して帰り来
一首目は後日「一握の砂」の巻頭に置かれている。浪漫的な気分により仮構された「われ」である。しかし、二首目に突出する「若き男」の顔は、かなり現実の相に近い自画像がうかびあがっている。また、三首目からは、全く明星調の調子は消えている。啄木の文学を束縛していた浪漫主義的文体が内部から崩れ始めている。この変革の背後には現実の厳しさに直面している啄木がいる。東京に「文学的運命を極度に試験」するという目論見で飛び出してから約二ヶ月、原稿用紙を買う所持金もなく、早くもその「創作的生活」は破綻をきたしていた。実際、この四日後には、「死にたくなった、死といふ以外に安けさを求める工夫はないように思える」と記している。   
啄木はその短い生涯で、思想的にも生活的にも何度も崩壊の危機を迎え、絶体絶命の境地に陥る。生活に追われ、文学に幻滅し、敗北感と飢餓感のなかで、自分自身の言葉を獲得しようと悪戦苦闘を続ける。その端緒がこの六月二三日からの二日間であり、解体と創造が「歌」という啄木にとって最も身近な場所で始まったともいえる。啄木は叙情をそぎ落としつつ、独自の文体を模索する。鋭い時代感覚で現実を凝視し、生き方を問い、自己を表現しようと格闘することがどれほど困難なことか、現代の我々に問われている。