眠らない島

短歌とあそぶ

飯田彩乃  『リヴァーサイド』

ここにゐないひとの上着の両腕が椅子の後ろに結ばれている    
 
 この歌を「未来」で読んだとき立ち止まって素通りできなかった。オフィスではよく上着をこうして袖を椅子に括りつけて収めている人がいる。この歌では上着の袖と云わないで「両腕」ということで、上着を着用している人、あるいは服そのものがまるで人格があるかのように立ち上がってくる。こういうリアル感の出し方がとても新鮮に感じた。ただ、この歌をなんどか思い出すたびに、違う印象をもってきた。上着だけが椅子にあり、それを着ていた人は「ここにゐない人」、つまり空席になっている。その「不在」ということに作者は反応している気がする。その「不在」の状態を安らぎと感じているのではないだろうか。生々しい実体、生命もつ人間よりも、透明である人の気配に心を寄せること、「無」へのひそやかな憧れ、これもひとつのポエジーのありようではないか。
 
うっすらと街を汚しゆく雨とわれを隔てる夜の硝子よ    
左右 ( さう )の耳はことなる音を拾ひつつどこに立つても風の途中だ   
遠つ国の名前もちたるヨーグルト食めば距離とはつめたさのこと   
 
飯田彩乃の「リヴァーサイド」を読んでやはり印象的なのは、対象との距離のとりかたである。距離をおくことで、心の置き場所を空けているように思える。
1首目、「街とそれを汚しゆく雨」とは「夜の硝子」によって隔てられている。ここで私は「夜の硝子」の内側からそっと汚れる街を眺めているだけだ。世界から隔てられた静かな、そして孤独な時間がここにある。
2首目、左右の耳がことなる音を拾うことで、世界は統一されたイメージを作り上げることはない。世界はいつも変容し、どこかへ行き着くまでの過程でしかない。ここでは無意識に「死」が予見されている。
3首目は美しい作品だ。「遠い国」「距離」「つめたい」と重さねるように、言葉を遠くへ飛ばしてゆく。そこには遠くにあるものこそが美しいという感受性が明白である。見えるものよりも見えないものにこそに触れていたいという願望がせつせつと言葉を尽くして詠まれている。感情度をできるだけ低く設定した世界。
 
ぱつぱつと大きな音をたてながらキィボードへ降る指の雨     
近づいてゆけばなんだか懐かしく潮の香りのするATM     
コピーした紙がひつそり息絶えるまでのぬくみを腕に抱きとる    
交差点にいつも置かれてゐた花がなくなるまでをこの街にゐて    
 
一首目、いきいきと動きのあるオフィスの雰囲気を掴んでいる。歌壇賞を受賞した一連の中の一首。ただ、ここでも生な人の描写はなく、聞こえてくるのは「音」と「指の雨」。水のイメージに転換する修辞が冴えている。
2首目、「懐かしく」思われるのは人ではなくて無機物であるATM。それに「潮の香りのする」と海のイメージを重ねて、ある種の透明感を醸している。
3首目、コピー用紙のぬくもりを儚さとして愛惜する心寄せが生きている。4首目も印象的。交差点に花が置かれているのは、たいがい死者のためだ。この歌では、花のある交差点と自分の棲んでいる街とがひとりの見知らぬ死者によって結ばれている。ある種の「不在」の状態を、自身の存在の影のように懐かしむ心性が働いている。こうした「空虚であること」を、感傷するのではなく、それを静けさとして、むしろ熱のない光のように感受する精神のありようがいかにもすがすがしく思われる。
 
みづからをいつぽんの樹となすときにその ( うろ )に来て眠る子がある    
わたくしの体はわたしを遠ざかりひと夜ひと夜を子は太りゆく   
夏生まれのあなたと冬生まれのわれのあひだに秋の子はやつてくる   
 
子どもを得てからの歌はどうだろうか。1首目、身ごもった子は、みづからの「洞」に来てやすらかに眠っている。「洞」はようやく充たされ始めた。2首目では私の身体と、胎児のからだとが一つに溶け合っているような体感をいうのだろうか。3首目は、子どもの誕生を迎える、この作者らしい透明感のある美しい歌だ。子どもの成長にあわせて歌はどう変わっていくのだろう。あたたかな体温が、静かな文体にどう流れ込むのか、これからに注目したい。
 
腋の下をすくつて空に抱きあげて滴るやうにあなたが笑ふ