眠らない島

短歌とあそぶ

本多真弓  第一歌集 『猫は踏まずに』

ほつほつとはつなつに雨おちてきてないものをねだってもいいんだよ   
 
 
 2013年に、このブログで取り上げた『猫を踏まずに』がこの度は歌集としてまとめられた。前に、もっと本多真弓の歌をまとめて読みたいと書いたが、その願いをかなえていただいた。ボリュームを増して第一歌集として再会できてうれしいことが嬉しい。
一冊の歌集になることで作者としての本多真弓の像が明瞭になった。それは、歌に詠まれる感情の振幅の大きさ、そして豊かさにもよるし、内面の高揚感や鬱屈した心情をナイーブに活写する詠法の獲得によっても果たされている。器用な歌人だから洒脱なポエジーを取り込んでどのようにもうまく詠める。私性から離れて少年になりかわることも融通無碍にこなす。
しかし、歌集としてまとまった歌群を読むと、あらためてひきこまれたのは率直な詠歎をやわらかでしずかな言葉で紡いだ連作だった。
 
ともだちのこどもがそこにゐるときはさはつてもいいともだちのおなか
ともだちのこどもを膝にのせるときああ内側がぜんぶさみしい
こひびともこどももゐないわたしには存在しない海と公園
ともだちがこどもを生んだり育てたりしてゐるあひだ空気を売って
 
 これは「ともだちの」と題された連作。率直な感情がぷつぷつとつぶやくような言葉で綴られている。この湿潤さを根っこにした詩情にこの作者のとても良質な資質があるように思う。生きることのやるせなさ、行き場のなさを手放しで詠うあてどなくはかなげな詠みぶり。未来誌上でもこうした歌が掲載されるたびに、筆者は震えるような気もちがしてメモをとっていた。この連作につづくのが「おののののろ」と題された実家を詠んだ連作。
 
三年ぶりに家にかへれば父親はおののののろとうがひしてをり
とりたてて報告をすることもなく一夜を過ごす父母の家
白菜を白菜がもつ水で煮るいささかむごいレシピを習ふ
 
 ここには、都会で働くことで搾取されつづける疲労した主体はうしろへさがり、肉親のもとでふっと息をつく娘の表情があらわれる。そこはすでに庇護される娘としての居場所はない。かわって執拗にまとわりついてくる家族という原初的な関係性が浮かびあがる。そして、作者はそれを「長女」という自己規定で十分に受け止めている。三首目は、歌集中とくに目を引く歌として注目される。「いささかむごい」という認識に作者らしい批評性が表れているが、また、この「白菜」とは「家族」がもつ本来の閉塞性や残酷さの象徴でもあるような気がする。
 
こうした他者の発見は、他者としての自己の発見にも発揮され、かがやきを放っている。
 
三年をみなとみらいに働いてときどき海を見るのも仕事
右向きにふとんで泣けば左眼のなみだが一度右目にはいる    
こころつて開いてゐるとくたびれる閉じてしまふとすぐくさりだす  
 
1首目、都会ではたらく時間が感傷を払った清潔感ある言葉ですくっと立ち上がる。2首目、涙が頬をつたうなどと言わずに、正確にその動きだけを描写することでかえって切なさが胸を衝く。まるで、自分のことではないような描き方が、その覚めた意識ゆえに内面をむごいほどに照らして新鮮だ。3首目、くたびれているのは自分自身なのだが、「こころ」一般にすることで「かなしみ」や「さみしさ」の普遍性を立ち上げてしんとする。このあたりの距離の取り方は絶妙だ。
 
好きな歌はいくらでもある。どうしても歌のフレーズが心に残ってしまうのは、この作者のよくこなれた口語の韻律美にもよるのだろう。その響きは果たされない願いのようにいつまでも揺れてやまない。
 
てのひらをうへにむければ雨はふり下にむけても降りやまぬ雨