眠らない島

短歌とあそぶ

高田ほのか 第一歌集 『ライナスの毛布』


光る窓を数えていけばビル群で繋いでいけば海図のようだ  
 
ライナスの毛布』は、歌集という既成の枠組みをはみ出した発想から生み出されているように思う。巻頭の「メリーゴーランド」は120首もの連作からなる虚構の物語。どこにでもいる若い三人の恋愛の機微を描いたものだ。また、『少女漫画の短歌化』とタイトルを付けられた章は、文字通り作者が愛読してきた90年代の少女漫画の世界が短歌に翻訳されたともいえる歌が並んでいる。どちらも、既存の短歌を読むコードで読もうとすると、はじかれてしまう。ここにはリアリズムから離れた、自由な遊びの空間が構築されているということだろう。短歌によって、こうした架空の物語を作り出すことは、特に新しいことではないが、ここに登場する普通の生活をしている現代の若者たちのこまやかな像を描き出すとうこともまた、新しく楽しい試みかもしれない。
 巻頭に挙げた歌は、その連作のなかの一首。それぞれ孤独や葛藤を抱えながら生きているふとした瞬間、夜の街の窓明かりが「海図」のように見えるのはどこか希望を掴んでいるようでほっとする美しさがある。
 
父さんと学習机を捨てにゆく六年は組を卒業した日     
深呼吸できる書店がなくなってチロルを添えるローソンのレジ  
 
歌集の後半では、少女から成長してゆく時間が、身辺の移り変わりとともに詠み込まれており、失われてゆくものへの愛惜がやわらか文体で読み込まれている。
一首目は、「六年は組」は、クラスの名前であろうが、こうしたクラス名を使うことで、そこで過ごしたこどもらしい時間のやさしさが質感として捉えられている。卒業というこどもから大人への人生の節目が学習机を失うということで、実感をもって伝わってくる。
二首目は少女漫画の大好きな作者が通った書店がなくなった寂しさを詠む。90年代は規制緩和の波に現れて、街から書店が次々に消えていった時代。この作者は街の小さな書店でわくわくしながら毎月の雑誌を手にしていたはずだ。そういう有機的な街が消えてゆく。ここにも、時代の変遷とそれがひとりの子供の心におとす避けようのない寂しさがよく織り込まれている。
 
( すみの ) ( どう )を横目に過ぎる今日からは平たい駅に毎日帰る
駅前でもらうティッシュは二つまで もてる荷物で生きてゆきます   
外はもう真っ暗闇で同じ日じゃないような街をうまく歩けない   
 
少女はやがて大人になり結婚をする。一首目は、「住道」の駅名がよく利いている。この歌から、その街が結構にぎやかな拠点の街だとわかる。結婚をすることで、そこが自分の街ではなくなることへの寂しさが印象的だ。
二首目、駅前でもらう「二つのティッシュ」が生活ということをどこか厳粛なものに見せているのが不思議だ。この作者の低い姿勢がそうさせるのだろう。三首目には、生きていく日々のなかでの、満たされない心が吐露されていて切実な感じがする。
 
歌集を読んで、この作者はとても日々を丁寧に生きている気がして、心地が良い。多くはないが、祖母や祖父の歌がとてもいい。自分の周囲の人の姿や、つながりを描き出している歌には、いいようのない安らぎを感じた。
 
しんにようをスルリと描く祖父の手よ歩んできた道ぼくに聞かせて