勺禰子 第一歌集 『月に射されたからだのままで』
風の強さは風の気持ちの強さゆゑ吾も立ちたるまま風に向かふ
歌集を読みながら、まさに強い風圧を受けているような動揺に揺さぶられた。この風の強さはもちろん、作者の気持ちの強さなのではあろうけど、では、なにがそうさせているのか考えあぐねながら何度か歌集を繰っていた。歌集中にはさまざまな、土地、生き物、無機物などの固有名詞があふれている。このあふれていること。このことが、この作者の世界そのもののようにも思える。内面の過剰さ、あるいは自在に羽ばたこうとする心性がこの作者を力強く世界に向かわせている。
そうした魂の遠心力は、現実的な関係での破壊力ともなったであろう。歌集を読んでいて深い罪障感にゆきあたる。自らのなかに抱えた傷ゆえに、現実世界に生きる弱いもの、あるいは、深い時間の闇に抱かれているものへの共感が育まれている。それが表現となったとき、一見乱雑でありながら凡庸でない豊かな世界を持つこともできるのか。
生きてゐたもののにほひがきはまりて鶴橋人情市場は充ちる
枯れる日のあると思へぬほど繁るゴーヤーのみどり肌をそめゆく
いきもののゆまりのにほひあふれ出て雑草は夏に記憶をむすぶ
ああ猫に触れ続けたしけものたちに毛がある至福に溺れながら
一首目、焼き肉の鶴橋というイメージが強いが、ここは東西の交通の要衝であるだけに、伊勢からの鮮魚もはいるらしい。そんな生き物、食べ物、そしてそこに集う人々の熱気、作者自身も街の昂ぶりのなかにいる。それを体感するのが「にほひ」。二首目、夏野菜としては欠かせなくなったゴーヤー。その鮮やかなみどりに肌を染められてゆくような感触を捉えている。ここにも無尽蔵のエネルギーを浴びる快感のリズムがうねっている。
三首目も、やはり「にほひ」から、世界を捉えている。においこそ、体からあふれ出てしまうもの。ここでは繁る雑草に生き物のゆまりのにおいを重ねている。ゆまりは決して良い匂いではない。むしろ汚れた状態こそ、作者の気持ちをを奮い立たせる場所として機能しているように思える。
四首目は、みずからがけものに同化してゆくような陶酔感と官能がある。原初的な情感を詠むとき、言葉は作者のからだそのものとなっている。
嗚咽してすべて赦されたい真昼校正作業の途中突然
執拗に揺さぶりながら存在を問ひくる伯備線特急やくも
遠きふゆ大きなる眼をみひらきて吾を見しこと吾は忘れず
キーボードに引き裂かれゐし子音母音なつかしみつつ君の名を呼ぶ
一方で、過去や記憶に苦しめられる歌が散見する。一首目の、あられもない罪障感の表出。二首目、執拗に存在を問い反してくるのはもちろん自身の記憶であろう。三首目ではその記憶がそのまま詠み上げられる。「大きなる眼」にいつまでも見つめられている苦しさ。そして、四首目、言葉そのものの本質を言っているようで、引き裂かれた子音母音がそのまま自分自身の身の上のようにも聞こえてくる。それゆえに懐かしむのであろう。
えげつない道頓堀の看板のひかりに刑場跡は紛れる
はつきりとわかる河内へ帰るとき生駒トンネル下り坂なり
欠落感を記憶に抱え込んでいるゆえに、その欠落をさらなる大きな欠落で埋めようとするかのように作者は土地を詠む。土地こそ苦難を背負ったまま命を絶やした無尽の死者の記憶そのものでもあるから。
一首目、悲田院は奈良時代の病者救済施設、「へばりつきたる」がまさに地名の本分だ。二首目、大阪ミナミには多くの刑場や墓地のなごりの場所がある。死と祝祭の近さに作者の気持ちはよりそっている。三首目、歌集中になんどもでてくる奈良と大阪の境にそびえる「生駒」。作者の内面にこの生駒は時間や感情の境界としてあり、生活を形作っているのであろう。土地が人のこころとひとつになって存在することのぬくもりを感じさせられて、印象深い。
奈良がすき奈良はきらひといふときにならはわたしが好きなんやろか
奈良がすき奈良はきらひと言へぬままなんとなく少しずつ慣れるといふこと
強く生きていこうとする作者だけれど、こんな優しい歌にさみしさが伝わってきて切ない。
寄る辺ない存在の我々だけど、土地というあたたかな空間を内面にとりこむとき、希望のように豊かな世界が開けてゆく。歌集をとおして多くの地名に遭遇した。時間と空間のひろがりを持つ土地にはやはり人のこころを慰撫する力がある。そんな力を引き出している歌集だとも思う。
しあはせにくらしたいなぞつい思ふ佐保のお山を眼前にして