眠らない島

短歌とあそぶ

大室ゆらぎ歌集 『夏野』


春の雨ゆふべに餓ゑてゆでたまごふたつを蛇のやうに吞み込む 
 
 
大室ゆらぎ歌集『夏野』を読んだ。あとがきに。265首とあったので、驚いてしまった。読み終わった充足感が尋常ではない。圧倒的な世界の深さと美しさ、そして怖さの重量感に酩酊してしまった。一首、一首を霊気のようなものが包んでおり、次の歌を読まずにはいられない。その霊気とは、あるいは観念かもしないとも思う。
繰り返し描かれているのは、身めぐりの小動物や、植物の姿である。ただ、それを見ている目の存在、そしてそれを認識している思惟の深さが纏わり付くような文語体と絡み合って一首を読み過ごすことをゆるさない。そして、静謐でありながら、どこか不穏な時間のなかに読む側の意識も彷徨いはじめる。
冒頭に挙げたのは、歌集の巻頭歌。ゆで卵を食べるという行為をまるで蛇の化身にでもなったかのように言葉をねばねばと連ねて詠みこんでいる。生存することは「餓えて」「吞み込む」ことの繰り返しであり、それはおぞましいことでもあろう。しかし、そういう生の実相に言葉で迫ってゆく迫力は、人や動物の境をこえて命の深さにも届いていくように思う。
 
 
沈黙をわれと分かちて朝を歩む雉のかうべに降れる水雪   
花の木の蜜を吸ひ吸ひ枝を移り小さく生きてゐることりたち  
見ずにおれぬ焦点としてゆふやみに何かを燃やす炎群立つ  
 
歌を引用しようとすると、ほとんど全ての歌に付箋が付いてしまう。ここに引いた作品は歌集の最初のあたりから続けて引いてみた。1首目、上句にまず立ち止まる。雉と分かち合うのは、あくまでも沈黙であるという認識には、そうたやすく自然と同化したりしないという潔癖な態度があり、また、このひとつの世界を分かち合いながら生きようとするもののそれぞれの孤独を把握しているようではっとする。
二首目、ことりのうごきを追ったあたたかな歌。「小さく生きてゐる」に作者のこまやかな感性と理性が光っている。三首目、この歌集では、「見る」という言葉がとくに多いように思う。見ることは即ち、認識すること。観念が先行しているようで、その観念をものを見透す知的な感覚で形象化している。焦点という語は揺るぎないし、実景として「なにかを燃やす炎」も鮮やかなイメージを立ち上げている。この三首とも、観念と物が不即不離のかたちで呼び合っており、それが滑らかな韻律にのって、こころに流れ込んでくる。
 
左眼は本を読む目で右の目は遠くを見る目、左目使ふ     
青空の青に吸はれて見失ふ何を言つているのか分からないひばり  
ひとつひとつが米粒となる稲の花、古墳に沿うて小道は曲がる   
長かつた蛇は轢かれて長いなりに平たくなりぬ、朝から暑し  
 
 
次は、歌集の後半から引いてみた。一首目、この作者のこころのありようをそのまま読み取れておもしろい。本を読む歌は、ややもすると衒学的になりがちだが、この歌は淡々と自画像を語っていて印象にのこる。二首目、下句の大胆な言い放しに驚かされる。歌集には、たくさんの小動物が登場する。生きていもの、死んでいるもの、にかかわらず五感をふんだんに使って、旺盛に対象を捉えてゆく。しかし、そこには対象にもたれ掛かる甘さはない。
下句は、一見乱暴のようだがそうでもない。ひばりのことは、ひばりにしか分からない。私たち人間は入っては行けない境界がある。そういう意味では、知的で敬虔な態度がこの作者の自然詠から押しつけがましさを払拭している。
三首目、上句の細部へのこだわりかたが、やや異様な感じで迫ってくる。そして、下句への転換のしかたがあざやかで、上手い歌だ。4首目もとても印象的な歌。蛇の死体をこのように淡々としかも執心して描くことにどきりとする。歌集を読んでいて、いろいろな生物の死体や骨が登場する。さらに興味ぶかいのは、自身の骸の姿もまるで想像を楽しむように詠まれている。このあたりの歌群に、生死を超えて、また、自我の枠組みから自在になって、異次元にはみだしてゆく幻影のちからと知の跳躍をみるようで震かんさせられた。
 
 
をりをりは世界に触れておほかたは世界を拒むために持つ指