眠らない島

短歌とあそぶ

『子規歌集』を読む 近代短歌を読む会 第10回

〇 参加者の三首選
明治30年
  ① 柿の実のあまきもありぬ柿の実のしぶきもありぬしぶきぞうまき
 
明治31年
 
   ② やぶ入りの女なるらし子を負ひて ( いかのぼり )持ちて野の小道行く
  ③ 物のけの出るてふ街の古館 ( ふるやかた )蝙蝠飛んで人住まずけり
  ④ 旅にして仏づくりが花売にこひこがれしといふ物語
   ⑤ 鉢二つ紫こきはをだまきか赤きは花の名を忘れけり
   ⑥ 榛の木に鳥芽を噛む頃なれや雲山を出でて人畑を打つ
   ⑦ 久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬも
 
明治32年
  ⑧ もんごるのつわもの三人 ( みたり )二人立ちて一人すわりて ( たて )つくところ
   ⑨ 四年寝てひとたびたてば木も草も皆芽の下に花咲きにけり
 
明治33年
  ⑩ 今日や来ます明日や来ますと思ひつつ病の床に下待ちこがる
    ⑪ ビードロの籠をつくりて雪つもる白銀の野を行かんとぞ思ふ
    ⑫ 真砂 ( まさご )なす数なき星の ( そ ) ( なか )に吾に向ひて光る星あり
 
明治34年
  ⑬ 夕ぐれのくもりかしこみあらかじめ牡丹の花に傘立つる人
   ⑭夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我がいのちかも
 
明治35年
  ⑮つくづくし摘みて帰りぬ煮てや食はんひしおと酢とにひでてや食はん
 
 
 
 
〇 感想  
   レポーターの報告、話し合われた内容を参考にしています。
 
今回、レポーターから詳細な正岡子規の年譜が報告された。その報告を聞きながら漠然と感じたことは、正岡子規という人は紛れもなく明治初頭の文明開化の時代の申し子だということだ。生年は慶応3年。9歳で勝山学校に入学し漢学を学ぶ。12歳、土屋久明のもとで漢詩を作り始める。また同年には、北斎の模写も始めている。この漢詩の素養が、子規の定型意識に大きく寄与していたことは間違いない。そして絵画への関心は子規の美意識をするどく育んでいたことだろう。
 
明治13年、自由民権運動台頭の機運にのって、16歳では政治に関心を持ち、演説まで始めている。その後、17歳で上京し、英語、句作、哲学、和歌と実に貪欲に食指を伸ばしている。ここには西洋的な知と美の世界にふれることに喜びを感じ、知的好奇心と野心にみちあふれながら、まだ何者でもないことにかえって自由を謳歌している年若い少年がいる。時代がまだ若い。そして子規の精神も実に溌剌と躍動している。
 
子規という人は、実はこの少年の志のまま、生き抜いた人ではなかったのか。「墨汁一滴」にも、実に多岐にわたるテーマの文章が並んでいる。政治論、教育論、美学論、そして、日常の四方山話。そのなかに、俳句や短歌がさしこまれるわけだ。
 正岡子規が「歌詠みにあたふる書」の第一回を書いたのが明治31年、子規が短歌と本気で取り組んだのは晩年の数年にすぎない。この短い期間に「写生」という礎を築く。しかも、前年には新体詩、この年には、小説まで書いている。なんと、多情なことか。
 
 ところで、今回、三首選にあがってきた歌を読むと、子規=写生、というイメージからはほど遠い作品のほうが多く寄せられた。これは、どういうことだろう。明治30年から32年の作品は、まだまだ試作期のような気がする。そのぶん、自由にのびのびと歌を詠んでいる。江戸から続く風俗をそのまま詠んだ作品や、「ベースボール」などという、新時代に生まれた単語をうまく読み込んでいるのも楽しい。しかし、それは、当時としては特に珍しいことではなかった。

子規が、短歌を一番おおく詠んだ明治33年。病状がかなり悪化したなかで子規の目は、定点を据えざるを得なかった。そのなかで生まれたのが「くれなの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」に代表される写実的な歌だったのだろう。

しかし、歌集を読みなおしての印象はどちらかというと、⑩、⑪、⑫のような、どこか遠くへ気持ちを放つような歌のほうが多い気がする。⑩は伊藤左千夫の来訪を待ち焦がれる歌、⑪は虚子にガラス戸を入れて貰って庭の景色が見えたことを喜ぶ日の歌だが、子規のこころは、庭を越えて「白銀の野」に遊んでいる。⑫は「星」と題された連作だが、このタイトルから子規の浪漫性をそのまま伺うことができる。折しも、新詩社から『明星』が出版された年でもある。
 
子規に連なる弟子たちは子規を「写生」の祖にしてしまったが、子規自身はどうだったのだろう。子規の過酷な境遇が、子規の歌の世界を狭いものにしてしまったが、子規自身は、浪漫性のある美意識を放出できないまま、孤独を抱えていたのではないだろうか。