眠らない島

短歌とあそぶ

田丸まひる 『ピース降る』


こころには水際があり言葉にも踵があって、手紙は届く  
 
 
  歌集をとおして言葉がこころの邪魔をしていない心地良さが通っているように思えた。とても気持ちの風通しがよい。何度か読んで、そのわけがなんとなく分かった。そのひとつには、切迫した自意識が少し後ろに下がって、距離感をもって自己と向き合っているように思う。歌を読むとき、その距離感によって読者は歌の世界に自然にはいってゆくことができる。読者には、そのすきまは空いた椅子のようにありがたい空間である。

また、前の歌集に比べて断絶や飛躍、あるいは破調が減り、とても丁寧な描写が目立つ。巻頭に挙げた歌なども、その一つかと思う。「こころ」「言葉」「手紙」とありふれたアイテムを使いながら、それらに「水際」「踵」という新鮮なそして、これ以上無くふさわしい喩をあたえることで繊細にかつ、簡潔に連結している。ゆったりとしたリズムにのせられて、心が言葉になり、それが、相手に届くまでの時間がここに流れている。今、時間と書いたが、この歌集には作者の内面の時間がこまやかなタッチで詠われている。それが、この歌集をとても読みやすいものにしているようだ。
 
跳ねあがるような癖字を書いていたきみがきみにだけ向けた暴力

泣きながらうつむく時の首のほね なんて小さな獣だろうか   

わたしより先に死ぬって決めているあなたが先に冬になりゆく   
 
一首目に描かれている「きみ」はおそらく作者の患者ではないだろうか。この歌集には、心を病んでいる少年少女の姿や声が混ざり込んでいる。ここには自分だけへの関心から解き放たれて、他者へ向かって開かれた視線がある。患者のこころに寄り添いながら、過剰にもたれ掛からない態度で心のありようが描かれている。「癖字」から、「きみにだけ向けた暴力」に関心が移るところ、医師としての冷静な観察眼が生きているし、また、輪郭をもってひとりの他者の存在が描き分けられている。
二首目、これは恋人との別れの場面だろうか。目の前にいる人物の「首のほね」をひややかに見下ろす視線がある。そして「小さな獣だろうか」と哀れみをもって嘆息する自分の冷徹なこころをも描写してしまっている。二人の関係性が浮かび上がるようで巧い歌だ。
三首目、ここでの「あなた」はおそらく結婚し、一緒に暮らし始めたパートナーをいうのだろう。「先に死ぬって決めている」ような慎ましい相手に対しての切ないような愛情が「先に冬になりゆく」という結句に滲んでいる。一緒に暮らす生活時間に、「死」は抜き差しならないものとして入り込んでくる。「死」から、逆に二人の暮らしのぬくもりやはかなさ、掛け替えののなさがさりげなく詠われていて美しい。
 
聴覚がほろびるような気だるさを沈めて遠い夏の浴槽  

グラファイトヒーターしまう春の闇わたしの果てにわたしはいない  

生活の中に輪ゴムを拾うとき憎しみのほんとうにかすかな息吹   
 
ここに挙げた首には「浴槽」「グラファイトヒーター」「輪ゴム」と具体的な物を印象的に配置されている。そのことで鮮やかな季節感や生活の中の実感のある時間の流れが生まれている。このような静かな歌が、歌集を立体感のあるものにしているようだ。
 今回の歌集には、自身の手術の体験もさりげなく詠まれている。手術することで自らの身体性を詠む歌は多く目にするが、そちらにはいかないで、どちらかというと精神性のほうへと向かうところにこの作者の品位を見るようで、心打たれた。
 
 
 見える傷、見えない傷に手のひらをあてられながら見る窓の雨