眠らない島

短歌とあそぶ

寺島博子 第四歌集 『一心の青』


 わがきのふけふにかかはることにして在りて在らざるほどか苦悩の 
 
最近、文語と口語について考えたり、話したりする機会があり、気持ちがそこあたりに止まっていた。文語の効用とか、口語の特性とかいわれたりするが、結局はどちらも言葉であるからには、それを使う主体そのものの思考の丈によって輝きは生まれるのだろう。言葉は思考に追いつけるか、というテーマがあるが、文体はそのまま主体の思惟の軌跡でもある。そのことを、この歌集を読んであらためて得心した。
巻頭に挙げた歌には、主体の思考する時間そのものの陰影が深く刻み込まれている。上から下へと読み下すうちに、思考はたゆたい、ねじまがり、そしてどこにも行き着かず淀んでしまう。それだけに、えもいわれぬリアルさを感じさせられる。まるで、主体の脳内にひきずり込まれたかのような眩惑を味わうのだ。文語体であることが、この粘りにさらなる強度をあたえているとも言える。ただ、ここでは文語、口語ということではなく、思考の重力を支えているのは、これ以上無く適切につながれ、繰り出されている助詞の技であるように思える。助詞によって、人間の思考の連続性とその曖昧さがしっかりと担保されている。
 
言ひかけてかろうじて思ひ( とど)まりつ悲苦はあくまで一身のもの 
子にものを言はむとして子の夫となるをのこを胸に置きて声にす  
さみしさを分けあふとなくとり出だす手のひらの大きさの皿二枚 
 
一首目、この歌も己の心に光りを当てて、その葛藤の瞬間をみごとに立ち上げている。作者のストイックな精神が歌集全体にゆきわたり、歌にすがすがしさを与えている。二首目は、娘の結婚に際して詠まれた連作の巻頭に置かれている。これも、とてもシンプルな出来事を詠いながら、ここに叙述されている内面は実に複雑だ。すでに、自分の手元を離れてゆく子にたいする距離感をいっているのであろう。それにしても、このような散文的とも思える言い回しをしつつ、己の内面に深く沈潜してゆくことが神聖にも感じさせられる。
三首目、これは、わりあいに内容もわかりやすく表現も平明な感じを受ける。それでもさらりと描写しているようで、二句から三句目あたりの言葉の斡旋はなかなか出てはこないだろう。「分け合うとなく取り出だす」のうねりによって、一首を単調な抒情から救い出している。やはり、これも修辞の力かと思う。
 
地のしづくとなりて跳ねたり鶺鴒はわづかにみどりの残る芝生に 
厚らかに白を湛へてゐし百合のしまひにたましひのみとなりたる  
雨に変はりゆくまでしばし縫い針を無数にあつめてしづかなる空 
 
景や物をみる視線において、粘りのある視線はさらに生き生きと対象を捉える。一首目、蜻蛉を描きながら、これはほとんど主体のよろこびが躍動しているふうでもある。二首目も同じく、百合を見ながら、その視線の先は物を越えて、永遠性にとどいている。百合の白さにたっぷりとした時間が塗り込められているようだ。三首目、雨にうつりゆく空を描いて、その重さが実体のあるように迫ってくる。
 
歌集では、どちらかというと家族の生死にかかわる境涯詠が多いのだが、そのどれもが甘く流れない。そういう詠み方、あるいは距離のとりかたを可能にしているのは、思考から紡ぎ出された文体の力であり、卓抜な修辞のなせる技のようにも思える。この作者が錬磨して手にしたまさに宝剣ともいえるのではないか。題材は古今東西にわたり、自在に歌を紡いでいるように見える。そこに共通するのは、この作者のしなやかな浪漫性である。最後にもっとも好きだった歌をひとつ。
 
 
霧のたちこめたる胸にあらはれて足音しづかに馬行くもあはれ