眠らない島

短歌とあそぶ

三﨑澪   『日の扉』


 花びらの盛り上がりまた盛り上がり押し出されくる幾片あはれ 
 
『日の扉』作者は、奥付によると、1920年生まれ。今年で97歳になる。読んでからその年齢を確認して、驚きを禁じ得なかった。よくありがちな、「老い」に凭れた〈自在〉な歌ではない。読むものに挑みかかってくるような、刃物のように鋭い感覚の歌が並んでいる。それは生涯をかけて追求した写実の方法であるのかも知れない。写実の行き着くところを凝縮された新鮮な文体で構築している。驚嘆にあたいする歌集と思う。
 
  会ひとつ果てたる感じに三三五五エスカレーターに人の降りくる  
  ふたすぢのエスカレーター上下せり( のぼ)りいくらか勢へるごと  
 
 この二首には、外界へのすこし角度のついた感応がある。現実の流れを平板にみるのではなく、対象そのものに接近しつつ、立体的に対象を捉え直している。一首目は、なんらかの会が果てて、人々が降りてくる様子を捉えているが、その人の動きの認識のしかたは物質をみているような即物的な描写がされている。
 また二首目、エスカレーターという無機質なものの存在になにか意志があるかのように、なまなましく動きを活写している。人の群れであれ、エスカレーターであれ、対象となるものから一切のノイズを削ぎ落とし、その様相のなかへ意識を集中している。これが写実という方法なのだろう。それにしても、主観の表出のしかたが非常にストイックであり、それだけにスローモーションを見ているように事物の様相が鮮明に浮かび上がってくることに驚きを感じる。これは描写ではなく、作者自身の内面世界の表出にほかならない。この作者の、高度に集中した意識や、凝縮された表現に嘆息するばかりである。
 
  デパートの食堂街に現実に蕎麦を食べ甘き卵焼き食ぶ    
  両脇を支へられつつ段越ゆるその感触のなになりしかな   
  花房のなきしずかさに藤棚は春昼過ぎの空間持てり   
 
これらの歌も実に不思議な詠み方である。一首目、作者がデパートで蕎麦を食べたり、卵焼きを食べているだけのことであるのに、食べている主体の意識はどこか浮遊しているようなあてどない。わずかに「甘き」に生身の作者の感覚が透けて見える。当然、三句目の「現実に」の措辞の置き方に、この作者の硬質な現実認識が如実に表れている。
 二首目は、どうだろう。すでに自身のからだを、自身で統御できない状態でありながら、それを悲観し、抒情するのではなく、その自身の身体感覚をどこか不可解なもののように、問い返している。ここには自身を他者としてみている透徹した理性が働いおり、世界と自身の存在との関係をあらためて問い返している。この距離感によって、生きているということの不条理な実体を可視化している。
首目は、花の終わったあとの藤棚を描いている。これも、普通はこうは詠えないだろう。「空間持てり」とすることで、季節感の詠嘆とはほど遠く、藤棚の存在を現実に厳然とあらしめている。主観をおさえた思惟的な構造は歌集全体にわたっており、それをささえる強靱な理性の力を感じないではいられない。
 
理性は自身の生死そのものをも冷徹に見返す。自身の生涯を「鎖の環」とするところにこの作者の屹立した精神世界はひろがっていたのである。
 

  鎖の環一つ外れてゆくごとく永かりしわが生の外れむ