眠らない島

短歌とあそぶ

鈴木美紀子 第一歌集 『風のアンダースタディ』

 
 夕暮れに流されそうだティファールの把手を握りしめているのに 

 
 鈴木美紀子は未来短歌会の加藤治郎選歌欄に所属している。このたび書肆侃侃房より歌集を上梓した。この作者の第一歌集を待っていたものは少なくないだろう。鈴木美紀子の歌には一首、一首に物語が封じ込められている。これが歌集になるとどうなるのかという期待があった。
 
 まず読んでいてとても楽しかった。上手いショートストーリーを立て続けに読まされているようで、スピード感があってすがすがしい。特に筋書きが仕組んであるわけでもないのに、主人公やそのまわりに出没する人物との関係がありありと動いて見える気がする。こんなふうに演出された歌集にあうのは珍しくて、新鮮な体験だった。
 それは、作中の〈わたし〉の意識の掬い取り方がとてもリアルなのに描写が乾いていて、次々と変化してゆくように現れているからかもしれない。あるいは、そういう意識のありようが、実際の私たちの意識のありかたと似ているのだろう。
 
  マフラーやネクタイ送れば気のせいか怯えた目をするあなたと思う  
  折り返し電話するよと言うけれどそのときはもう虹は消えてる   
 「君にはちょっと難しかったかな?」先生は人差し指でわたしを消した  
  おそらくは自分が何をしているかわからないまま蔦は巻きつく  
  うすうすは感じていたはずシャンプーとコンディショナーの減り方の差を
 
 一首目、二首目とも、恋人関係の曖昧さをある種の不安な心理として取り出している。三首目は、回想であろうが自己を否定される痛みの瞬間を掬い挙げている。結句の「もう虹は消えている」は、言い過ぎずとてもよく収まっている。四首目は、蔦の蔓の巻き方に、混沌とした生のありようを発見している。五首目は、人間関係の齟齬への怖れを、具体をつかってみごとに語っている。
思えば、生きている時間のなかで、私たちの意識は一つのことを継続的に思惟しつづけているのではないようだ。おそらくさまざまな感情はきれぎれに訪れ、私たちの意識のなかを漂い、消滅し、また再生しているのだ。そのことに、私たちが自覚的でないだけなのかもしれない。あとがきで作者はこう書いている。
 
 私の中の「わたし」は一人ではない、そう気づかせてくれたのが短歌でした。短歌をつくっているとき、見知らぬ「わたし」と出会うことがあります。その「わたし」は、嘘を吐いたり、自分を繕ったりするのがとても苦手らしい。
 
 つまり、この作者にとって短歌にあらわれる〈私〉こそが、あるがままの〈私〉ということにはならないか。そう思って読み返すと、この作者の文体は独白の形に似ている。そのときどきの意識を、粉飾をまじえずにそのまま取り出すことで、かえってなまなましい世界がつかみだされている。こういう表現のありようは決して単純な操作ではないだろう。私たちは、どうしても概念を言葉に置き換えるとき、さまざまに余計な手を加えてしまう。平板になることをおそれつつ抒情してしまう。この作者は、読者にとって言葉が平坦なまま入力される文体をつかみ取っている。それは、過度な意味や、抒情を言葉から削ぎ落とし、感情度を低く抑えていることにも起因しているのかもしれない。
 
  イソジンのうがい薬の褐色でひとり残らず殺せる気が、した   

  二人用の柩はないと知ったときあなたに少しやさしくなれる  
 
こういう毒を孕んだ作品もさらりと述べられていて、はっと胸をつく。冷静な感覚がこの歌集の感度の基底をなしているようだ。毒は、ユーモアにもつながり歌集を奥行きのあるものにしている。歌集の中には、美しく抒情的な歌もたくさんあり、完成度が高い。しかし、単に抒情するのではなくて、そこにはシャープな認識がひかっていて、はっとさせられる驚きがある。
 
    ばらされるときがいちばん美しい花束のような嘘をください