眠らない島

短歌とあそぶ

近代短歌を読む会 第6回 『山川登美子歌集』

近代短歌を読む会 第六回 「山川登美子歌集」(岩波文庫

 
◎出席者の選んだ歌より
 
1わが胸のみだれやすきに針もあてずましろききぬをかづきて泣きぬ
 うつくしき蛾よあはれにもまよひ来ぬにほひすくなく残る灯かげに
 おつとせい氷に眠るさいはいを我も今知るおもしろきかな
 
「わが胸のみだれやすきに」のところに夫が罹患していたこともあり、肺病への不安がよみとれる。自己否定しつつ、自己愛がある。「蛾」は自分の投影か。上句に心情を投影したものを、下句に実景を置いている。
「おつとせい」という珍しいものから歌が始まっているユニークさを感じる。推敲前の歌(「おつとせい氷にねむる幸をしらで涙す小さなるわれ」)と比べて、推敲後の「我も今知る」があるほうが歌として良い。『白百合』のなかには「歌」という言葉がたくさん入っている歌が多く、当時の流行の影響か。
 
2手づくりのいちごよ君にふくませむわがさす紅の色に似たれば
 をみなにて又も来む世ぞ生れまし花もなつかし月もなつかし
 死の御手へいとやすらかに身を捧ぐ心うるほし涙わく時
 
「まし」の柔らかさ、リフレイン。そのあたりが明星調。「をみなにて」の歌は女性としての立ち位置の揺れが考えられる。恋愛に対しての幻想、精神性が詠み込まれている。美しい者を感じ取る特権をあらわにしている。
 
3その浜のゆふ松かぜをしのび泣く扇もつ子に秋問ひますな
 今の我に世なく神なくほとけなし運命するどき斧ふるひ来よ
 ほほゑみて火焔も踏まむ矢も受けむ安きねむりの二人いざ見よ
 
歌の姿が凜としている。意志の強さ、自立心が感じられ、歌いあげの原点ではないか。「二人」という表現は当時の明星のなかで流行っていた。『恋衣』が刊行できなかったことも、「今の世に~」という歌につながっている。
 
4誰がために摘めりともなし百合の花聖書にのせて禱りてやまむ
 石二つ浪あらき磯にならべおきて苔むさむものか花さかむものか
 おとろへて枕あぐるも扶けられ窓にしたしき星を見るかな
 
「苔むさむ」は明星っぽくないが良い、象徴と願望(あこがれ)を感じる。リフレインが印象的である。
 
5をみなへしおとこへし唯うらぶれて恨みあへるを京の秋に見し
 飛びかねて吹きおろさるる心地なり疲れは増しぬ木枯ふくに
 灰色のくらき空より雪ふりぬわが焚く細き野火を消さむと
 
色の対比が上手い。倒置法がかなりみられる。感情を詠むところから情景へとつなげていく文体である。
 
6わが息を芙蓉の風にたとへますな十三絃をひと息に切る
 紅筆にわづらひたまふ歌よりも雪の兎に目をたまへ君
 
題詠で訓練がつまれていたと考えられる。舞台をつくってそのなかに感情をのせることが多い。
 
7神の手よりまたとりかへす朝の声ましろの梅に色さしそひぬ
 春ならぬ鼓しらぶるわがおもひ世に何ものを恋ひ拊つべき
 雪にふす葦間の杭のかたむきに夕日雨よぶせきれいの声
 
1首目「神の手」には、キリスト教の影響が見られる。2首目は古典的な声調のなかに力強い意志が通っている。
3首目は、写実的な描写をしており、「かたむきに」はよく景を捉えていて、透徹している。写実詠の方向でも可能性が拓けたのではないか。
 
8地にあらず歌にただみるまぼろしの美しければ恋とこそ呼べ
 歌よみて罪せられきと光ある今の世を見よ後の千とせに
 石に見よ花さくげにも身は病めど世に限りなしわが思ふこと
 
歌のなかでは現実ではないものも、美しいものを見ることができる。美しいものを恋として、浪漫的な世界を打ち立てることと精神的な自立とを重ねるように激しく求めている。
三首目の歌には、成し遂げられなかった数々の夢へ果てしない思いが溢れていて悲壮である。登美子は現実的に生きるうえでは、ほとんどなにも成就できなかったが、その分精神的に断念のなかに激しい生きることへの希求を秘めて歌を詠み上げている。
 
感想

明星のなかでは晶子に比べて山川登美子については、たおやかなイメージがあったが、選ばれてきた歌を読み、自立心や美へのあこがれが強く感じられた。現実ではなくとも、思いのなかのリアリティを見いだし歌に詠むことは現代の歌にも通じるものがあるのではないか。
 
『明星』という時代のエコールがやはり、明治の青年層にとって絶大な影響を持っていたことはたやすく想像できる。『明星』誌上が、フィクショナルな同人同士の恋愛空間を提供しており、その共同幻想のなかで同人たちや、全国の若い投稿者たちの感情を解放していく契機を掴んでいる。それは、明治末期の青年層が精神の自由を獲得するうえではかなり有効に機能したと思える。

山川登美子も、上流士族の家柄の娘として封建的な教育をうけながら、自力で自分の道を切り開こうと模索し、苦闘している。明治の知識層を代表する女性の生き方ではないだろうか。厳しい社会的な弾圧のなかで歌集『恋衣』をだすことでは精一杯の反道徳の姿勢を貫いた。特に病を得てからは、死を見据えながら孤独な内面や高い志を格調高く歌に刻もうとする。
それは、明星調がしだいに空疎になり、衰退して行くのと反対の方向であり、最後の光芒を放った山川登美子は明星を代表する歌人と位置づけて言い過ぎではないだろう。

 参考文献


「小ノート」より

 ぞっとするもの


牛乳 くすり しらがゆ うに なまこ まぐろのさしみ 豚のチャップ 腸づめかくに くじら ねぎののた


 


 きらいなもの


おかゆ 卵 スープ コンニャク パン 西洋料理 へたなジャム  タツピヨーカ すの物 たねなすび ねぎ キャベツ くず引き きゅうりのつけもの にんじん 大根 牛肉めし やきどーふ


 

(すきなもの)


 寿し 細かいものをかつおで煮たの てんぷら ひややっこ 氷きんとき  おからずし いか たこ ぜんまいのしらあい 棒だら 肉と煮た松たけ うなぎ ならづけ 百合 ゆば らっきょ おのつぺー ごもくいのつめたいの かき なし みかん かぼちゃ 西瓜 いわしのしすいり はも おだんごの煮たの みそづけたくわん ちくわ たたきごぼー ひよとり きゅうりもみ 赤飯 たらの子 細芋のみそだき


 


(料理・献立メモ)


 
ほろぼろの麦のみそじる  かれのきり身ただし児なり  干し大根と白魚のお汁したらよかろう 竹輪と千切りと上手にたくと 伊勢えび 貝の柱をお味噌で煮てみたい 鯛の子 みそ漬け 大阪のむし寿司 茶碗寿司 すずめずし


きりずし まちかねに柚の皮きざんで やきみそ柚すりおろして 巻ゆば みづな いも まつたけあられ くわいの木のめあえ 蓮のすに 茶めし 豆めし 鳥めし かきめし 


 

② 二十日 (明治38年11月)


 


昨夜睡眠薬のおかげで、12時頃よりよく寝しめたため心地良く、今朝めずらしくふと四時頃に目が覚めた。  (略)


看護婦は私がねた間を遊びにいくのです。ああいやな人。お父様はなぜ信じて何事もお任せになるのやら。決して悪いひとではないが、私がいやでいやで、甥は帰ると、其の人は昨日は日曜、沢山おみまいの人があったろう、男か女かという。苦しい苦しい耳にもよく聞こえる。こんな苦しんでいる病人の頭の上で、訪問者が男か、女かとは、あんまり人を侮辱した言葉ではありませんか。何にも男子に訪問されたって、決して決して悪いはずはないではありませんか。ましてや私にはひとりも男友と申すものはない。  (略)


 

③「中ノート」より


 


死なば忘るべきこの苦しみを猶ほ何のほだしにながらへてか、ことしまた秋風に遇わんとはする。東の都の塵深く、ねたみ多き世や。吾とこしえにのろわれて,、泣くべき程は泣きつくしたり。


弱きもの女は名とよ。人よ、露草のうすき香りの花びらに蟷螂のおのが手の斧のふるい、毛虫がおのがねどこにとやわらかき茎を這いゆく夕とならば(略)


ああ、吾もついに終わるべし、涙もかわくべし、思いもさるべし、あらゆる罪とけがれの世より洗われて。


 


「大ノート」より

④ 


わたしはじめてお酒という物をいただいたものですから、ひどくひどくよいました。そのはづ、まだお酒の味もしらぬ身に、きょうはウヰスキーをコップ半分ばかし吞んだのですもの。それは水を倍にはしましたが。(略)


私はなぜ、朝から晩まで愉快ということのかげは一すじも味わで、何か彼か思わぬ苦しみのたえぬものでございましょう。じっと、考えていますと、涙があふれてぽたりぽたり落ちて参ります。くやしきこと、かなしきこと、さみしきこと、それは皆、昔むかしに捨てておりますよ。境遇なんかもう何とも思いません。


 
東京へ嫁てはや一とせ、古雛なつかしいというにはあらねど、父さま母さまはなぜに一度上京してくださらぬ。姉様の文にはお前さまの様子見がてら、まだしらぬ日光見物もいたしたしと仰せらるるに、いまだにいつともおたよりなきは(略)


此のやつれ、此の見苦しさ、一とせの心の苦しみは、身にまでかくもあらわるるものか。どうと聞かれたら何としょう。


女の一生涯、二度と得られぬ花の一時ぞと人もうたえば、吾もいなまざりし花嫁の(略)


 
⑦十人十色、吾もなるべき姿と思わざりしな。思わねど、人妻のかくまでも苦しき悲しきものならば、世に数しれぬ妻と名つく程の人、なぜにああして楽しそうに生きておられようぞ。死なんと思うわがままか、人ほこりなしか、智恵なしか。


 


ぼんやりと山を見ていますと、足下の麦畑から雲雀がすーっと雲まで行ったかと思うまに、また次第に降りてきてよったりしました。これはこの四五日、朝から夕まで同じ所の天地を上に下にゆききしてさえずっているのです。かわゆい雲雀、私も鳥に生まれてくればよかった。どんなに呑気でいいでしょう。あの美しい雲の中で歌っている心地は、どんなに楽しいでしょう。人間に生まれて王公貴人の楽しみにも何てうことかは。ましてーまして私の様なつまらない者の身で、もし鳥に代われたならば、ああ私は。美しい春、美しい花、美しい百姓の顔、ああ、皆美しいのです。いまのあめ地はよろこびの極みでしょう。


 


書簡 



与謝野鉄幹宛  『明星』第六号 (明治33年・9)


 


浜寺・住の江の歌まきは早おもひで草となりて、やさしき人々のみこころを語り申し候。けさ起きいでて雨にぬれある露の朝顔、あまりのかわゆさに思わず口づけ候らえば、ひややかなるその露、かりそめながら忘られがたく候。(略)



与謝野鉄幹宛  『明星』第十号 (明治34年・1)


 


(略)罪はおこしへ、ああ何の恨み、それともわかぬよわきよわき星屑の、それを小さき声に神よびて、あはれうつくしき干しの数はけがせし。神の罪大きなり。


くりかえし、わきかえり、もだえくるしき胸の血赦したまへ。あらず、赦したまへとはいわじ。みなさけあらば、責めたまへ。懲らしめたまへ。


ああ、吾は罪の子か、わが筆は魔の手なりしか  (略)


 


さらば、さらば、きよき君、たかき君、うつくしき君。   (白百合)



与謝野鉄幹   『明星』第14号  (明治34・8)


 


わたくし鳩守となりにし候。白鳩に候。かわゆらしきのに候。されど猶お、なぐさむべきものにも候わず。『放つまじ。天の扉は堅かれな』などと、この鳩の胸の和毛、いまだ手ふれず候。(略)


『みだれ髪』は、その姉君のみぐしをさながら、まことに美しき御名と覚え候。(白百合)


 


当時の批評



『恋ごろも』を読む    星下郊人  『明星』(明治38・2・1)


 


さて、『恋衣』を一読してまず第一に感じましたのは、此の人たちの如何に真面目であるかということです。これらの人々にとっては、詩歌はもとより、教化の具でもなければ、自らを慰謝する方便でもない。さればといって『書かなければひもじいから』とまで公言するような、そんなさもしい考えから筆を執るのではなおさらない。詩歌は唯、詩歌それ自身のために存在している。これをたとえて申しましょうならば、何のためにではなしに美しい花のほほえむように、何故となく清らかな水の流るるように、これらの人々の詩はおのづからに成るのである。そうして詩歌はそれ自身の他に何らの目的も有しないのである。(略)


かくのごとく人生の興味をもっぱら美的に観ずるよいうことは新詩社本来の著しい傾向ではありますが、このたびこの『恋衣』を読み、過去六、七年の経過を回想して見ますと一層この感を深くするのであります。


 


 次に注意すべきは、この傾向がその初めは、先年の『文学界』などの流れを君で、専ら「ヴォルテリズム」や「バイロニズム」などいうような、所謂感情主義、超道徳主義と連結していたものが、近年にいたっては漸く、王朝時代の渇仰に基づいて小規模ながら、一種の「ルネッサンス」的思潮をも伴うようになったことであります。


(略)


それから、この『恋ごろも』を読んでみての所感というわけではないけれど、世間ではよく今日の韻文というものは難しくて困る。殊に新詩社の短詩などとくるとサッパリわけのわからないものだという人が随分あるようです。なるほど、新詩社の詩はむつかしいかも知れません。おそらくは今日の純文学的の作物のなかでもっとも解しにくいものの一つかもしれません。が、しかし、この最も解しにくいというところに、やがて新詩社が一面において、新趣味の開拓鼓吹という大使命を有している所以が存するのではあるまいか。(略)


近来の韻文はわからないという人は、大抵自らのそれを味わうだけの修養を積まないからなので、わからないのは詩人の罪ではありません。ある程度まで自ら作家のほうへ近づいて来るというのは、本来読者たるものの義務なのでありますから。


 


登美子女史の作物は、ひと言で申しますならば、前後を通じてその熱烈燃ゆるごとき感情が最も著しい特徴をなしているように思います。もちろん、初期の作物においては感情さながら熾烈の文学となっているのに対し、近頃のものは何となく沈痛哀愁の調べを帯びて来たという、違いはありますが、本来のけいこうからいえば、この熾烈なる感情ということが、女史の詩をして早くから一異彩を放たしめたるものと思われます。


(略)


今の我に世なく袖なくほとけなし運命するどき斧ふるひ来よ


 


登美子独特の情想であり、また格調であって、到底他の人の模倣し得ないところであります。


 



『恋衣』の歌人