眠らない島

短歌とあそぶ

小黒世茂  第五歌集 『舟はゆりかご』


いつの日か失くせし磁石も文鳥もみつかりさうな森のふところ   
 
小黒世茂の歌を読んでいるとなんとも心地良い。小刻みな現実の時間から解き放たれて、大きくて深い世界に包み込まれる。小黒の歌はいつでも命の根源にまっすぐに向き合って存在そののものを鷲づかみにしてしまう。修辞の小細工を寄せ受けない太い声調は現代短歌の繊細で痩せた風景とは対極の世界が、ここにゆるぎもなくあることを思い起こさせてくれるようだ。
小黒は単にアニミズム的に自然を歌うのではなくて、いつでもそれは人間くさい暖かさを帯びている。古代史や神話に心をよせる姿勢は、からだごと原初の世界に抱きかかえられたいという熱情に溢れているようだった。何故、こんなにも執拗に土着的な世界に拘るのか、不思議な思いさえ抱いた。そこには、あるいは小黒自身の「さみしさ」のようなものを感じないでもなかった。冒頭にあげた歌には果てない自然への憧れとノスタルジーが響き合って美しい。
 
今回の『舟はゆりかご』は、そういう小黒の切り開いてきた古代神話に通じてゆく独特の力強い歌の世界に、自身の家族の歴史が加わっている。家族の時間を振り返ることで小黒世茂という一人の人間の根源に帰ってゆく。そこには幼くして生母と生き別れるという喪失体験があった。
 
実母には抱かれしこと継母には背負はれしこと 舟はゆりかご   
別珍の赤靴みやげに母さんはきつと戻るよ賢くなろうね      
 
 一首目はタイトルにもなっている歌。二人の母を詠む口調は温かい。しかし、二首目には、生母を慕うさみしさが哀切に詠まれている。「賢くなろうね」は周囲の言葉か、自身の言葉か、おそらくはどちらもが重複しているのだろう。寂しさをこらえながらけなげに成長してゆく時間をこの一首に閉じ込めており、胸を衝かれる。歌集には母だけではなくたくさんの家族が登場する。
 
ここ何処?とふ不安の背中さするとき涙こぼるる吾のあかんたれ   
 
なかでも姑を詠んだ歌は、葛藤の多い関係をなんとも平易でかつ巧妙な表現で双方の感情の根っこを捕まえて提示する。ここに挙げた歌でいえば初句に姑の「ここ何処?」という台詞だけを出してそれを「不安の背中」と端的に把握しなおす手腕が鮮やかである。下の句で自己像をだしているが「あかんたれ」という大阪弁がやさしく響く。苦労の多い介護の現場の複雑な感情の機微をよく捉えた一首と思う。
 
このようにみると、小黒世茂という歌人の卓越した修辞力に注視できよう。
 
いつの間にかわれの首よりずり落ちるマフラーのごとちちはは逝きし  
うんともすんとも返事なきまま睦月すぎ地球の表皮にしろ葱伸びる  
生家には長くてなんにもないトイレットペーパーみたいな歳月があつた 
 
 一首目、第四句までのフレーズと結句が互いに拮抗しながら、父母を亡くすことの実感を見事に形象化している。二首目、「地球の表皮」というスケールの大きな把握に驚く。ここには日常性とそれを超越した世界とのからみが重層的に認識されている。三首目の比喩もあまりにも実感がこもっていてその迫力に圧倒された。「歳月」をこのように卑俗にいうことでかえって人の営みの悲しみが輝いて感じられてしまう。
こうしてみると、修辞はやはり歌人の力だとあらためて感じさせられる。そしてその修辞は深くて美しいところへ連れて行ってくれる。この歌集を読みながら何度もため息がでてしまった。  
 
台風の去りし洋上 子を産みたるのちの獣のやうなしづけさ